第427回 赤の祭りに参加した 

前山光則 
 
 12月13日、男友達3人と共に八代市坂本町の山中、板持(いたもち)という小集落に出かけた。そして、赤の祭りに参加した。
 その日は朝から実に気持ちいい青空が広がっていた。前日ジトジトと雨が降ったのだったが、もうそれはまるで嘘のようであった。
 板持集落は、八代の町なかから国道3号線を南下し、日奈久温泉を過ぎた後しばらくしてから左折してなだらかな峠道を越えると、球磨川の支流の一つ百済木川(くたらぎがわ)が現れる。すると、間もなく板持集落である。見覚えのある曲がり角を右折し、板持川沿いに入って行く。直きに、今あちこちで話題となっている本『食べて祀って〈小さな村の祭りとお供え物〉』(弦書房)の著者・坂本桃子さんの実家に辿り着くのである。
 現地に着いたのが、午前11時少し前ぐらいであったろうか。坂本桃子さんはもちろんのこと、お姉さんも一緒に迎えてくださった。
 板持川左岸沿いのやや広くなっている平地が赤の祭りの祭場であり、宴の場である。さっそく祭りの準備を手伝ったのであるが、わたしたち男どもができるのは先ず火を焚くこと。ドラム缶が据えてあるから、その中へ木切れやら紙くずやらを放り込んで火を点ける。ただ、前日に雨が降ったため、湿っていた。こりゃあなかなかうまくいかないかな、と懸念されたのだが、友人K氏もS氏もこういうことにかけては慣れており、ガサゴソやっている内に炎がメラメラと立ち上がってきた。しかも、あたりを見まわしてみたら、幸いなことに自転車用の古ぼけた空気入れが転がっていた。それを使って、ドラム缶の底近くに開いた破れ目から空気を吹き込んでやると、火の勢いは見る見る強くなっていった。
「やっぱり、こぎゃんして火を焚くと良いもんだなあ」
 いや、ほんと、人影薄い小渓谷の中で、最初は頼りなげに、だがやがてメラメラと炎が立ち上がる。なんだかそれだけで元気が出てくるし、嬉しくなってしまうので、不思議なものだな、と思う。
 そんなことをやっている内に、祭りの参加者が増えてきた。八代市内からは言うまでもないこと、熊本市や人吉市、さらには大分県日田市や鹿児島県薩摩川内市からも駆けつけて来て、総勢12名。みなさん坂本桃子さんの知り合いであり、『食べて祀って〈小さな村の祭りとお供え物〉』の愛読者なのである。老若男女、ドラム缶の焚火を囲むかたちでワイワイガヤガヤ、賑やかな場となっていった。
 みんなが「赤」にまつわるお供え物を持って来ていた。祭場の一角にそれらが並べられているのだが、ザッと挙げると、まず30センチほどの長さの赤いゴッツイ石、これが「御神体」である。桃子さんによれば、3年前に初めて赤の祭りを催してみた時に水俣の友人が持って来てくれた石なのだそうである。そして、お供え物としてはトマト、イモ、赤飯、郁子(むべ)、赤酒、清酒、焼酎、川蟹、赤蕪(あかかぶ)、柚子胡椒、ビスケット、干し柿、猪の骨付き肉、等々、である。とにかく、品物が赤色であるか、そうでなくとも何らかのかたちで「赤」に関係するものであれば良いそうだ。すなわち、トマトや赤蕪や赤飯・赤酒は赤色だから大丈夫。猪肉も赤い。川蟹は、生きているうちはそうでないのだが、湯がけば赤くなるから合格。清酒や焼酎は透明な液体だが、壜に貼ってあるラベルが赤色であり、これまたよろしい。
 そのような物が出揃い、人間も集まったので、神事が始まった。川に架かる橋の上に桃子さんが榊(さかき)を手にして立つ。そして、しばらくお祈りした後、榊を恭しく川へ捧げた。さて、他の者たちも、これに続くのである。3人とか4人ずつ橋の上に立ち、桃子さんと同じことをさせてもらった。不思議なもので、なんだかたいへん敬虔な気持ちになるのであった。
 それからが、飲み食いが始まった。いわゆる「直会(なおらい)」である。お互い、顔なじみであればすぐに団らんが始まる。初めて出会った人たちは、初対面の挨拶やら自己紹介などやっているうちにうちとけて、話が弾む。ワイワイガヤガヤ、和やかな空気が板持川の岸辺でできあがっていったのだった。
 谷間の冷気は清々しい。飲んべえたちは、互いに語り合いながら実においしそうに清酒や焼酎を愉しんでいた。
 JR八代駅近くで喫茶店を営むA氏は、酒に強い人だ。清酒だろうが焼酎だろうが、コップに注いでもらったらクイ、クイ、とひと息に呑んでしまう。しかし、あれまあ、大丈夫だろうか、と心配になったのであったが、はたして1時間ほどして気づいたら、板持川右岸の方の草むらの中で仰向けに寝転がっていた。両手両足が伸びきってしまっているではないか。いやあ、だから言わんこっちゃない、これは後でわたしの車に乗せてやらねばならないが、連れて帰るのがヤッカイだぞ、飲んべえってひどく重たいからなあ、と心配したのだが、ところが、である。
「マスター、聞こえますか、ねえ、マスター、しっかりせにゃあいかんとですよ」 
 と叱るような口調で呼びかけると、A氏はムックリ起き上がった。大きく背伸びして、
「うん、いや、今日は実にまったく気持ちいいぞお。この空気、この風、良かねえ! 空が青々しとるし!」
 心配あらず、飲んべえはまことにしっかりしていたのであった。
 わたしなどはアルコールを嗜まないし、運転手役であるから、もっぱら食べる愉しみに徹した。なんといってもお赤飯が嬉しかった。固すぎない、柔らかすぎない、実に良い按配の口当たり。噛みしめると、しっかりした甘みが口中に満ちて、これだから赤飯って良いんだよな、と心から思う。一皿では足りなくて二度もお代わりした。白飯のお握りも、これに劣らず良かった。何といっても、米そのものが良いのであろう。噛めば噛むほど味わいが出てくるお握りであった。おかずは、竹輪の煮たのや魚すり身の天ぷらといったものがあったし、漬物も汁の物もおいしい。おかげで、すっかりお腹いっぱいになった。
 この赤の祭りには、一昨年つまり令和3年(2021)12月4日、K氏とS氏、わたしの3人で初めて参加させてもらった。参加者は10名いなかった、と記憶している。その前年に第1回が行われたのだそうで、『食べて祀って〈小さな村の祭りとお供え物〉』によれば、令和2年(2020)7月の球磨川流域およびその周辺を襲った大水害は桃子さんの実家付近にも多大な被害をもたらした。「坂本の歴史上、ここまで厳しい試練が過去にあったのだろうか、と悲観」するしかないような事態が生じたのである。
 だが、大災害から数ヶ月が過ぎた頃、桃子さんはふと、「今こそ祭りの力が必要ではないか」と考えたのだという。この発想がまた前向きで魅力的だな、と感心する。桃子さんは「私たちはもっと、川と寄り添って、川の気持ちに心を傾けるべきかもしれない」と思い、祭りの会場を自らのふるさと板持川に決めたのだそうだ。それも、12月の「新月の日」に祭りをしよう、というのである、だから、赤の祭り第1回は令和2年12月15日(旧暦11月1日)に行われたのだという。さて、そして祭りの時の直会(なおらい)であるが、「古くから厄を払うと言われる縁起の良い『赤い食べ物』を各自持参し、火を囲んで共同飲食をする」というわけである。だから、祭りの名称も「赤の祭り」――ほんとに、何という素晴らしい着想であろう。
 そういう趣旨に賛同して、わたしたちも一昨年初めて3人で参加させてもらい、すっかり赤の祭りの「氏子」になってしまったのであった。昨年も加わりたかったものの、こちらがのっぴきならぬ用件を抱えてしまっていたために欠席するしかなかった。4回目となる今年は、雑事が重ならぬよう備えていたので、こうしてしっかり駆けつけることができたのであった。
 午後3時過ぎ頃においとましたが、帰り道、車を運転しながら、いやはや参加できてよかった。また来年が楽しみだな、と、しみじみした満足感があった。
 ちなみに、人吉から参加していた友人H氏は、翌日の朝、
「いやあ、良いお祭りでした
 と電話してくれた。彼は、自分の住む地域での祭りが面白くなくて、「ぶっつぶしてやろうか」などと思っていたそうだ。それが、今回、赤の祭りに参加してみて、なんだか自分たちでも何か祭りを始めてみたい気持ちが湧いてきたという。
 H氏は無農薬で米を作ったり、玄米餅を搗いたり、桜島大根を栽培したりするユニークなお百姓さんである。人吉の方で何か取り組んでくれるかもしれないなあ。

写真① 赤の祭り会場 清冽な水が流れる板持川の畔り、この日はとても天気が良くて気持ちよかった。

写真②お供え物 すべて、みんながそれぞれ持ち寄った品々である。