一心に撮り続けた半世紀 高木尚雄氏インタビュー

『地底の声 三池炭鉱写真誌』の著者、高木尚雄さんにお話をうかがいます。ご自身も炭鉱マンとして勤務のかたわら、三井三池鉱での労働、暮らしにファインダーを向けただけでなく、退職・閉山後も消えゆく炭鉱の記録を残そうと撮影を続けられた高木さん。歴史的にも類を見ない坑内労働の撮影に際してのエピソード等をお聞きしました。

高木さん近影

いつごろから炭鉱の写真を撮り始めたのですか。

高木 昭和三三年ごろからです。当時、土門拳氏がある雑誌で、写真のテーマを選ぶなら自分の身近なものがよいと語っているのをみて、それなら三池炭鉱の写真だと心に決めました。

撮影で苦労したことについて聞かせてください。

高木 一番苦労したのは、やはり坑内の撮影でした。私は四山坑に勤務していました。三池で最も深いところ(地底約五二〇m)まで掘り、採炭していたヤマです。会社の許可はもらいましたが、私用で入坑するのでもし怪我でもしたら労災保険の適用も受けられませんので、随分考えました。

昼間に入坑したのですか。

高木 いいえ、自分の勤務を終えたあと、土曜日のですね、三番方(夜勤)の人たちと一緒に午後九時頃に入坑しました。

暗闇のなかでの撮影ですね。

高木 そうですよ。ほんとにまっくらです。撮影条件が非常に悪く、温度は三〇度以上で湿度は一〇〇%近い場所もあって、カメラのシャッターとストロボが同調せず、フィルムを現像してみると全然写っていないこともありました。ストロボは防爆用を会社から借りましたが、落盤、ガス爆発、火災などの危険を常に気にしながら、命がけの撮影でした。

三池争議(昭和三五年)や三川鉱の炭塵爆発(昭和三八年)のときは撮影もされたんですか。

高木 争議や事故の写真はほとんど撮っていません。お互いに炭を掘っている仲間のことですから、争議の光景や爆発事故の現場などは、心苦しくてほとんど撮ることができませんでした。
 苦い思い出がひとつあります。ある社宅の集会所で落盤事故による殉職者の社葬がありました。もう三〇年も前のことです。社葬の写真も炭鉱史の一頁であると考えて遺族の許可をもらって写し始めました。最初のうちは何事もなかったんですが、式の終わり近くになったときに参列者の中が騒がしくなって来て、なんだろうと思っていたら、どうも私の写真撮影が問題になったらしくて、会社の業務で撮影していると思われたようです。騒ぎが大きくなって、とうとう吊るし上げられました。労働組合の幹部のとりなして騒ぎは収まりましたが、あとの祭で頭を下げる以外どうしようもありませんでした。

坑外の写真も多く撮っていますね。

高木 特に苦労したのが、近世(一七〇〇~一八〇〇代)のころの採掘創業期の先駆者たちの墓を探し出すことでした。所在地を知っている人はまったくいませんでしたので、墓地をひとつひとつ見て回ってようやく探しあてたときは、疲れ果てましたが、うれしかったですね。

〈聞き手:編集部〉