前山光則
2月8日のことであるが、朝から熊本日日新聞に目を通していて「おお、やはり、そうか」と思わず声が出てしまった。「八代亜紀さん 県民栄誉賞」との見出しつきで、昨年12月に亡くなった歌手・八代亜紀さんについての記事が載っていたのである。
それは、前日の定例記者会見で蒲島郁夫県知事が発表したのだそうで、つまり県は故・八代亜紀さんに県民栄誉賞を贈ると決めたわけである。発表の際に、知事は「豊かな表現と情感あふれる歌唱。日本を代表する歌手で、私は舟唄が一番好きだった」と語った由である。県民栄誉賞といえば、一昨年、プロ野球ヤクルトスワローズの村上宗隆選手(熊本市出身)が初めての受賞だった。八代亜紀さんは二人目ということになる。
一方、これも記事の中で触れてあったが、八代さんの出身地である八代市は「名誉市民」の称号を贈ることに決めたそうだ。中村博生市長は、「これまでの活躍と功績は大変顕著で、市民の皆さんが郷土の誇りとしている」と讃えたそうである。
うん、そうだよ、「県民栄誉賞」も「名誉市民」の称号も実にあの歌手にふさわしい、と、記事を読んでしきりに頷いたのであった。ほんとは、両方とももっと早い内に、御本人が生きているうちに与えられてしかるべき賞であり、称号だったのだ。
八代亜紀という歌手は郷土への深い思いやりがあった人で、記事にも「八代さんは2016年4月の熊本地震、20年7月豪雨の被災地を何度も訪問」とあり、蒲島知事は「被災者を慰問するなど、復興の後押しをしてもらった。熊本愛にもあふれた方だった」と語ったそうだ。実際、記事の通りだと思う。
ちなみに、八代さんは、地元の放送局エフエムやつしろに対してずっと定期的に電話によるインタビューに応じてくれていた。だから、八代市民は、ラジオ放送を通じて地元出身歌手の近況や芸能界の色々な話題などを、いつもご本人の声を通して聴くことが出来ていたのである。そして、八代市渡町にある熊本県立八代清流高校の校歌は、他ならぬ八代亜紀さんの作詞・作曲によるものである。
今の僕等は 明日を知らない
だから学ぼう 清らかな学舎(まなびや) で
完璧なんて 遠いけど
価値あるものを探すんだ
友と一緒に 懐(いだ)きながら
清流 清流
熱き心の八代清流高校
これは校歌の一番の歌詞であるが、若者たちへの励ましの真心がこもった、しかも分かりやすい一語一語ではないだろうか。
その他、八代でおこなわれるイベントに度々ゲスト出演してくれていたし、画を描くことが好きで玄人同然だったから、その方面でも地元との関わりを続けていた。この人は、郷土・八代のことはいつも忘れずにいてくれたのではないだろうか。
そして、まずなにより優れた、魅力溢れる歌手だったな、と思う。デビュー曲は、昭和46年(1971)の「愛は死んでも」であるらしい。「あなたが 背中を向けたから わたしの愛は死にました」という歌い出しであるが、わたしにとっては印象が薄い。やはり、なんといってもその2年後つまり昭和48年(1973)になってからの「なみだ恋」が「八代亜紀」を最初に印象づけた歌であった。
夜の新宿 裏通り
肩を寄せ合う通り雨
誰を恨んで濡れるのか
逢えばせつない 別れがつらい
しのび逢う恋 なみだ恋
この曲がラジオやテレビから流れると、その頃わたしなどは前年の春まで東京で夜間大学生をしていたから、その頃のことが、アルバイト先でいつもこっぴどく叱られてたもんだよなあ、とか、金がなくなって途方に暮れたこともあったよなあ、などと生々しく思い出されて、切なくなるのだった。つまり、「なみだ恋」は明らかに恋の歌であるのに、そのことは分かっていながら、どうしてか自身の貧乏学生だった過去ばかりが蘇って来て、しんみりしてしまっていたわけだ。八代亜紀という歌手の、甘くてややハスキーな声。それがまたまことに艶っぽくて、じんじんと胸にしみ入ってきた。魅力溢れる歌手だな、と感心していたら、たちまち人気が出て来て、数々のヒット曲を飛ばした。
そして、昭和54年(1979)の「舟唄」、これがまた味わい深い歌だ。
お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった イカでいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり 灯りゃいい
しみじみ飲めば しみじみと
思い出だけが 行きすぎる
涙がポロリと こぼれたら
歌いだすのさ 舟唄を
この一番目の歌詞の後に、「沖の鴎に深酒させてヨ いとしあの娘(こ)とヨ 朝寝する ダンチョネ」が入るのである。
デビュー時の「愛は死んでも」は、言うなればどこにでも転がっているありふれた歌謡曲。「なみだ恋」の方がずっと味わい深い、八代亜紀らしさの溢れた歌だし、そして「舟唄」になると更に深みがあるというか、人生の厚みを感じさせる歌だ。しかも、これは「男歌」である。女性歌手である八代亜紀、それがこの歌においては男の哀愁をうたってみせている。歌手としての成長というか円熟を豊かに感じさせる一曲、と評して良いのではなかろうか。そしてまた、その翌年には「雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い」の「雨の慕情」が出て、これがまたリズミカルで、愉しくて、魅力的な歌だった。
心が忘れたあのひとも
膝が重さを覚えてる
長い月日の膝まくら
煙草プカリとふかしてた
憎い 恋しい 憎い 恋しい
めぐりめぐって 今は恋しい
雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人つれて来い
雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人つれて来い
だから、「なみだ恋」「舟唄」そして「雨の慕情」、この3曲が歌手・八代亜紀の人気と地位を不動のものとしたのではないか、とわたしなどは捉えている。
それにつけても、すでに『ふるさと球磨川放浪記』の中に書いた失敗談だが、懐かしく思い出すことがある。
あれは、昭和50年頃、そう、「なみだ恋」が流行(はや)っていた頃のこと、兄が東京から友人を案内してきた。2人でその人を人吉へ連れて行ってあげることになり、わたしはわざわざ熊本駅まで迎えに出た。そして、3人で人吉行きの急行列車に乗りこんだのだが、列車に乗って間もなく、焼酎の酔いで機嫌良くなっていた兄が、
「あのね、この次に停まる駅は、ヤッチロ.。そこまでは鹿児島本線だが、ヤッチロから人吉へは肥薩線になるのだよな」
と説明しはじめた。兄は焼酎を自分でつぎ足しながら、続けた。
「八代。ヤ・ツ・シ・ロ、では、駄目だからね。『ヤッチロ』と発音しなくちゃ、地元ではバカにされるんだから」
と余計なことを言い出した。わたしもつい悪乗りして、
「そう、そぎゃんですよ。八代出身の歌手で、八代亜紀というのが居るでしょ。『ヤシロアキ』と訓(よ)ませてあるですが、あれは地元では『ヤッチロ・アキ』でなくちゃあ、いかんとですよ」
とホラを吹いてしまった。兄も勢いを得て、
「うん。そして、八代は蚊も多い。あれなんか、『ヤッチロ・カ』と言うんだもんな」
とやらかした。すると、近くに座って、それまでは無言でいた初老の男性がいきなり身を乗り出した。そして、きつい口調で、
「こら、お前どもは、なんか。言うちゃあすまんばってん、わしは、ヤツシロの人間。あんたたちゃあ、どこの人間かい。八代の者は、みんなヤ・ツ・シ・ロ、としか言わん。『ヤッチロ・アキ』とか、『ヤッチロ・カ』なんて、決して言わんゾ!」
顔をまっ赤にして抗議しなさったのである。いや、これにはまいった、弱った。わたしたちはひたすら謝るしかなかった。男の人は、それでも腹の虫が治まらないらしく、
「よかかい、八代亜紀は、ヤ・シ・ロ・ア・キ、だ。それが、なしてヤッ・チ・ロ・ア・キってなるとか、あ?」
と怒っていた。思えば、あの時のあの人は、郷土から生まれ出た歌手・八代亜紀を誇らしく思っていたに違いない。それなのにわたしが、酔っ払った軽率さで「ヤッチロ・アキ」などとやらかしたものだから、許せなかったのだ。まったく悪いことしてしまったよなあ、と、今でも申し訳なく思う。そして、振り返れば、あの頃にはすでに八代亜紀さんは郷土出身歌手として多くの八代市民から篤く親しまれていたのではないだろうか。
2月1日から、八代市役所1階ロビーに八代亜紀さんを偲ぶための献花台と几帳所が設けられている。わたしも先日出かけて行ってお詣りしてきたが、何人もの人が来ていた。祭壇には八代亜紀さんのにこやかな顔の写真が飾られ、花々で包まれていた。そして、「亜紀さん、ありがとう」という趣旨のメッセージがたくさん寄せられていた。これは3月3日までは続くそうだ。まだまだ多くの人たちがお詣りに来るだろうな、と思った。
なお、市は、2月29日にはこの1階ロビーで「八代亜紀さんお別れの会」を開くそうだ。
それにしても、享年73。膠原病という難しい御病気だと分かってから、エフエムやつしろでは御本人を励ます意味で何かにつけて八代さんの歌「だいじょうぶ」を流して来た。
優しいふるさと後にして
何度も何度も 泣いたけど
だいじょうぶ だいじょうぶ
いつも心で つぶやいた
わたしなども、月に2回エフエムやつしろの「かっぱのおちゃちゃ」というお喋り番組に出演する時には、アナウンサーの前田美紀さんに促されて毎回一緒にマイクの前でこの歌を「だいじょうぶ だいじょうぶ」とうたってきたのであった。
もっともっと長生きしてほしかった歌手、八代亜紀さん。だが、今さら言っても虚しいだけだ。