前山光則
毎日だらだらと単調な日々を送りつつ、テレビはよく観る。
いくつか好きな番組がある中で、「徹子の部屋」、これは午後1時から30分間(月曜~金曜)、KAB熊本朝日放送で愉しむのである。つまりは昼飯を済ませて茶を啜りながら観るわけだが、ウィキペディアで調べてみたら、これがまたたいへんな長寿番組なのだそうだ。なにしろ放送開始が昭和51年(1976)2月2日だったというから、もう48年間も続いていることになる。放送回数1万2千回を超えるのだそうで、凄いことではないだろうか。
この番組を観ていていつも感心するのは、黒柳徹子さんが、出演者たちがそれぞれ何者であるか、どのような仕事をやっているのか充分にわきまえた上で会話するのである。出演者たちは、自分のことを熟知してくれている司会者をすっかり信頼しているふうであり、寛いだ表情で自らのことを語る。黒柳徹子さんがそれに反応してまた色んなことを喋るので、話が賑わっていく、双方には人間的な信頼関係が自ずから生じている、といったふうで、毎回、飽きることがない。
この人は昭和8年(1933)8月生まれなのだそうで、年齢が90歳に達していることになる。それなのに毎週月曜から金曜まで「徹子の部屋」に出演するのだから、元気の良さに感心してしまう。女優・黒柳徹子としてのトレードマークというべき「玉ねぎ頭」がまた、いやはや、何とも言えぬ愛嬌である。そして、派手な衣裳をまとって画面に現れるのであり、しかもどうも毎回必ず違うものを着ている。これはどう見ても90歳に達した老女ではなく、体全体に永遠の若々しさが漲っている。
実は、この黒柳徹子という女優さんに関しては忘れられない思い出がある。
わたしは、昭和42年(1967)から昭和47年(1972)まで東京に居て、夜間大学生であった。働きながら法政大学の二部(夜間部)に通う、という生活をしたわけである。その間、色々のアルバイトや勤めをして自活したが、最も長かったのが銀座四丁目の「銀之塔」というシチュー料理店での3年4カ月である。つまり、昭和43年(1968)1月から昭和46年(1971)5月まで働かせてもらった。その店は歌舞伎座のすぐ裏手にあって、現在も営業している。呉服屋の蔵だった白壁土蔵の建物を改造した、ちょっとユニークな店構えである。
ここは、泥鰌鍋等に用いられる小ぶりの土鍋、あの土鍋でシチューを温めてから客に出すのである。牛肉をじっくり煮込んだ、いわゆる「ビーフシチュー」である。牛の舌肉を煮込んだ「タンシチュー」も出していた。シチュー以外には、お客から注文が出た際にグラタン(コキール)も作っていたが、その他には一切メニューがない。店名の由来は、フランスはパリのセーヌ川畔の名店「トゥール・ダルジャン」、これが「銀の塔」との訳になるのだそうだ。そのような名にせよと初代店主にアドバイスしたのは作家・久保田万太郎だった、と聞いている。
とにかく、シチューもグラタンもたいへんおいしくて、「銀之塔」は昔も今も常に行列のできてしまう人気店である。なにしろ、午前11時が開店時間であるが、その3、40分前から店の前にはいつも人が並ぶのだ。
客筋は、当然のことながら一般客が多いけれど、すぐ傍に歌舞伎座がある関係で役者さんたちも馴染み客であった。そして、歌舞伎座に直接の関係がないような芸能人や知名人も食べに来ることが多くて、柳家金語楼さんとか黒柳徹子さん、それから作家の舟橋聖一氏も常連といってよかった。舟橋氏は、当時、目が見えない状態になっており、御夫人に手をひかれて来店なさっていたので、「いらっしゃいませ」と出迎えしながらいつも痛々しい印象であった。こうした常連さんたちは、わたしなどがアルバイトに行くよりもずっと以前から銀之塔の常連だったのである。ちなみに、店は昭和30年(1955)開業だそうである。
黒柳徹子さんは、一人で来店することは決してなくて、いつも何人かのお供の人たちと一緒だった。シチューだけでなく必ずグラタンも注文してくれていた。そして、みんなと一緒に仲よく食事なさる。厨房にいると客室の方は直接は覗けなかったが、仕切りの障子の向こう側から決まって楽しそうな、賑やかな話し声が聞こえてくるのだった。時間は、たいていおおよそ3、40分ほどであったろうか。その間、皿を洗ったりシチューの煮え具合を確かめたり、店のおばちゃんのすることを手伝ったりしながら客室の語らいを聞いていると、賑やかな団欒の雰囲気が伝わってきていた。
あの頃の黒柳徹子さんは、どのような番組に出ていたろうか。「ステージ101」とか「クイズ大作戦」「繭子ひとり」等々、民放よりもむしろNHK専属みたいな仕事が多かったのではないかと思う。
それで、いつも感心していたのが、団欒の中で常に黒柳徹子さんの声が聞こえていたこと。この人はしょっちゅう喋っているのだな、と呆れていた。とにかく、話し声が途切れることがないのであった。無論、連れの人たちもよく喋るので、要するに食事しながら会話が大いに弾んでいたわけであったが、それで、ご一行が帰った後、客室の方へ片づけに行ってみると、シチューもグラタンもきれいに平らげてある。ほんとに皆さん食べ残すということが全くなかった。
だから、あの賑やかな団らんの中で常に最もよく喋っていた黒柳徹子さんは、いったいいつの間にシチューとグラタンをきれいに平らげることができるのだろうか、と、これが毎度不思議でならなかった。それほどに丁寧に食べ尽くしてあったのである。素朴な疑問を、一回だけ、店を取り仕切るおばちゃんに小声で言ってみたことがある。
「あんなにずっと喋りっぱなしですが、黒柳さんって、料理を口に入れる時間なんかあるんでしょうか。すごいお喋りさんですよね」
すると、おばちゃんは途端に顔を顰めて、
「あなた、余計なことを言うものじゃないわよ!」
こっぴどく叱られてしまった。
――といった次第で、まあ、夜間学生だったあの頃、黒柳徹子という女優さんについては「実にほんとにペチャクチャと喋りまくる女の人」という印象しか持っていなかった。
しかし、今になって思うと、厨房で働いていた頃のわたしは、極めて浅いところでしか客室の賑やかさを受け止めていなかったようである。何といっても、あの人は、自分だけ喋っていたのではなかったのだ。その場にいる一人一人に話しかけて、話題を作り、自分も大いに喋って、座を賑わせていたのであろう。だからいつも食事の場が盛り上がっていたし、おいしかったのであったろう。なにしろ、御一行が帰った後に客席を片づけに行ってみると、シチューもグラタンも、付け合わせのお新香も、まったくきれいに食べ尽くされていたからである。きっとそういうことだったのだ、と思う。黒柳徹子さんたちは、料理を気持ちよく食べ尽くしてくれる最高のお客さんだったのである。
つまり、「徹子の部屋」が長続きする要因は、すでに銀之塔での食事風景の中にも活き活きと存在していたのではなかったろうか。田舎出の夜学生は、思えば、いかにも鈍感であった。人気タレントの人柄をちっとも感じとれぬまま、厨房で皿を洗ったりシチューを煮たりしていたわけだよなあ。あの頃の自分は、いかにも生意気な若造であったのだ。
テレビで「徹子の部屋」を愉しみながら、銀の塔時代のことがそのように懐かしく蘇る。そして、テレビを観るだけでなく、最近はこの人の自伝的エッセイ『窓際のトットちゃん』も読んでみた。「トットちゃん」の実に伸び伸びと育った様子が描かれており、こうした幼少女期を経てその後の黒柳徹子さんがあるのだな、と納得したのだった。
「徹子の部屋」はまだまだ続いてほしい。