前山光則
今年の夏は本当に暑い。家の中ではなるべく扇風機で我慢するようにしているが、やはり昼飯や夕飯の時などにはついついクーラーの冷房力に頼ってしまう。8月に入ってから夜中や朝方にはやや涼しさもでてきたものの、昼の間はまだ暑さの弱ってくる気配がなく、いったいこれはいつまで続くのだろうか。
それはともかく、近頃読んだ本に名優・渥美清のことが書かれていて興味深かった。
山崎まゆみ著『宿帳が語る昭和一〇〇年』に佐賀県の古湯(ふるゆ)温泉(佐賀市富士町)が紹介されているのだが、ここは人気映画「男はつらいよ」シリーズ第42作「ぼくの伯父さん」に出てくる。古湯温泉がなぜまたロケ地となったかといえば、あるとき寅さんこと渥美清に、小学4年生の少年が、
「寅さんへ
僕が暮らしている町の上流に、大きなダムができて、昔の面影がなくなってしまいます。どうにかして、この風景を残して欲しいです」
とファンレターを出したのだそうである。少年は、不慮の事故により左手の指を切断せざるを得なかったという可哀想な境遇にあるのだが、「人一倍、自分が暮らす土地へ愛着があったのだろう」と著者の山崎まゆみさんは書いている。
さて、これを読んだ渥美清が、エライ。「ぜひ、行こうじゃないか」と山田洋次監督に提案したので、それで佐賀県の古湯温泉が「男はつらいよ」シリーズ第42作「ぼくの伯父さん」のロケ地となった次第だそうである。
この第42作は平成元年(1989)12月27日に公開されたのだが、ロケ隊は11月8日から11日までの3泊4日で古湯温泉の老舗宿・鶴霊泉(かくれいせん)にやって来たそうだ。なにしろ、有名な人気映画のロケである。古湯集落には5千人ほどしか住民がいないのに、この宿の玄関前には5百人も見物客が集まって来たというからスゴイ。
さて、主役の車寅次郎役・渥美清であるが、映画に出てくる時とはまた違った雰囲気だったようだ。ロケ隊を泊めた鶴霊泉の小池英俊会長によれば、
「映画でのフーテンの寅さんは、威勢よく啖呵(たんか)きるじゃないですか。でもご本人は本当に物静かで、物腰やわらかな人なんですよ。寅さんとはまったく別人で、私なんて、最初はその違いに拍子抜けしました。本当に正反対なんだから」
こんなふうで、途惑ったそうである。ロケで滞在中に、一日だけ撮影が休みとなった日があったそうだが、その日の渥美清は、
「渥美さんはずっと客室で本を読んで、静かに過ごしていました。浴衣ではなく、ご自身が持ってこられたスウェットの上下で寛がれていました。」
客室ではずっと本を読んで、それこそ「物静か」に過ごす。そして、自分が持ってきたスウエットの上下で寛いでいたというのだから、確かに映画でのイメージとは「正反対」、だいぶん隔たりがあるようだ。
撮影をしていた時の様子はどうだったかといえば、ファンの前で辛そうな顔は見せなかったものの、顔色が悪かった。その後、平成3年(1991)になって医師から肝臓癌の診断を告げられた由だが、もしかしたら病気そのものはすでにそのだいぶ前から進行しつつあったのかも知れない。ただ、「調子の悪さを決して表に出さない姿はプロフェッショナルだなと思いました」と会長は語っている。集まってきた人たちにも、「ひとりひとり丁寧にサインしていた」という。ただ、吉野ヶ里遺跡や小城(おぎ)の方にロケに出かけて夕方に帰ってきた時は、「本当に体調が悪そうで……、辛そう」だったそうだ。
宿の方では、そのような渥美清の体調を気遣ってやった。本人が「野菜が食べたい。芋類が好き」というので、夕食には名物料理の鯉のあらいの他にイモの煮付けやゆがいたカボチャ、新鮮なトマトを生で出してあげたりしたそうである。また、渥美清は甘いものが好きだと聞きつけたから、手造りのおはぎを出してやったら、「とても喜んですべて食べてくれました」というから、甘党なのだ。それから、女将が毎朝、温泉水をつかって淹れた珈琲をふるまってあげたところ、「渥美さんは好んで飲んでいました」とのことだ。
確かに、このような様子であれば映画で見るような渥美清ではない。というか、実に沈着冷静、しかしながら人間的温かみがじんわりと伝わってくるではないか。フーテンの寅こと車寅次郎とはまたひと味もふた味も違う、奥行きのある「渥美清像」が偲ばれる。
映画の撮影が終わって宿を出発する際には、鶴霊泉の玄関先にスタッフが揃い、撮影隊御一行をお見送りしようと待っていた。そこへ、渥美清が階段を下りて来た。そして、靴を履き、立ち上がると、半身ほど振り返り、「右下斜め四五度」にスッと視線を落とすと、横顔を見せて、
「寅は、けえります」
と一言のこして旅館を去ったそうだ。渥美清はさすがにファンサービスを忘れていなかったのだ。女将さんは、後で「カッコ良かったねえ~、寅さんだったね」と感激していたという。
寅さんにファンレターを出した少年も映画のロケを見にきたそうで、山田洋次監督と彼が一緒に写っている写真が宿に残っているという。少年は「口元をきゅっと引き締め、少々緊張した面持ちだが、どこか誇らしげそうにも見える」とのことだから、微笑ましい。無論、渥美清にも会えたのだろう。実は、少年は鶴霊泉会長・小池氏の甥っ子であり、撮影中にはちょくちょく宿にも顔を出していたそうだ。
それから、戸田学著『随筆 上方芸能ノート』にも、これは関西方面の芸能界について書かれているから関東の方の話題はほとんど出てこない本なのだが、しかし一カ所だけ渥美清について触れてある。それは、小林信彦著『日本の喜劇人』から渥美清について論じてある箇所を引いてあるのだが、映画「男はつらいよ」シリーズが始まった頃、当初、渥美清は「寅さん」といわれることには抵抗があったそうだ。渥美には、「喜劇人として当然の上昇思考で、人間的にもかなりきつい個性」があったという。ところが、「男はつらいよ」シリーズを重ねていくうちに変化が生じてきた。はじめは「寅ほど俺はバカじゃない」と思っていたが、そのうち「俺は本当に寅より賢い人間なのか」と思うようになったのだという。そして、「俳優・渥美清は、車寅次郎という役柄を通して、濾過(ろか)され、人間的にも昇華してゆく(またはそう演じた)」と著者は評している。
ははあ、なるほど、渥美清は、「男はつらいよ」シリーズで車寅次郎を演じる前、すでに「南の島に雪が降る」「拝啓 天皇陛下様」「馬鹿まるだし」「渥美清の泣いてたまるか」
等々の映画やテレビドラマが大評判で、もう充分に大スターであった。しかし、車寅次郎役を演じてからは、それ以前の作品や役柄について話題にされることがあるだろうか。それほどに寅次郎役は渥美清にピッタリの役柄となっているのではないだろうか。
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します」、この口上にある通り、葛飾柴又で生まれ育った寅次郎、その両親であるが、息子に厳しかった父親は早く死んでしまったのか、映画にはまったく出てこない。母親は1回だけ登場するものの、関西に住んでおり、寅次郎と再会してもなぜかわが子に冷たい。その代わり、寅次郎の生家である柴又の「寅屋」は叔父ちゃん・叔母ちゃんが守ってくれており、妹のさくらも近くに住んでいる。そのような故郷・柴又へ、寅次郎は時折り帰って行くのである。
ドジで、間抜けで、だけどお人好しで、美人にめっぽう弱くて、毎度、入れあげる、そして、必ず失恋――渥美清は、この車寅次郎役を演じることによって成熟し、俳優としてというよりも人間的に大きくなったのであったか。
いや、そうであればなんだか分かるような気がする。毎度失敗や失恋ばかり重ねてしまうフーテンの寅、しかしながら彼ほど愛すべき好漢が世の中にいるであろうか。「男はつらいよ」シリーズは、今でもBSテレビで放映されることがあって、毎度かならず観ている。同じ作品を、いったい今まで何回愉しんだろうか。何度観ても飽きない、それはやはり車寅次郎の人間味がしっかり伝わってくるからである。いや、無論それだけでなく妹のさくらや夫の諏訪博(ひろし)・寅屋の叔父ちゃん・叔母ちゃん等までもがたいへん愛すべき人たちだ。
わたしなどは、東京で夜学生をしていた時分に、暇を見つけては友人たちと共に「寅さん」のふるさと葛飾柴又へ遊びに行っていた。帝釈天前の参道をぷらんぷらんと歩き、お参りし、そのあとは茶店に入って名物の草団子を食った。江戸川の方に下りてゆき、矢切の渡しで舟に乗せてもらい、対岸つまり放浪の画家・山下清が幼少時代を過ごした千葉県市川市国府台(こうのだい)の方へも行ってみていたものである。大学卒業後も、東京へ出かけたついでに柴又まで足を伸ばして遊んだことが幾度もある。マンモス大都会の郊外であるなどとは信じられぬくらいに風情ある界隈だな、と思う。
それにしても、渥美清はこの映画に出演を重ねることで人間的に成熟していたのであったか。そうであるならば、この俳優の一生はなかなかに劇的であり、味わい深いものなのだ。そして、作品そのものの魅力にもまた改めて感じ入ってしまうなあ、と、今そう思う。「男はつらいよ」シーズ全作をまた改めて第一作から順を追って鑑賞してみたいものだ。
ちなみに、少年が危惧していた佐賀市富士町の東畑瀬(ひがしはたせ)地区は、その後やっぱり嘉瀬川ダムの湖底に沈んでしまったそうだ。つまり、彼の惜しんだ山里の風景は、もはや映画の中でしか観ることはできないわけである。