「ロックを『読む』」書評から

◇山口哲生氏(活水女子大学・英文学)から著者宛のメールより引用させていただきました。

 読みましたよ。「テクストは批評が戯れることのできる自由な空間であり、批評は戯れつつそこに多彩な意味を産出する。」
気に入りましたよ、この言葉。だって、そうだから読む ことが楽しくなるわけでありまするよ。ロックを聞かないぼくが、『ロックを「読む」』を読めるの も、そんな多彩な意味が楽しいからです。

で、どこが楽しいわけ?

ロックから文化論を読むこと、が読めること、がです。”make my dreams come true”というたった5つのワードから、1950年のアメリカ社会、もちょっと遡ってヴィクトリア朝のイギリス社会まで、ロックを知らないぼくまでが、空想のリズムにのって覗けるたのしさ。「50年代アメリカに おける父権社会」なーんて論文は「戯れ」をゆるしてくれないから、ぼくは読まないし、仮に読んだとしても、”Come back and I’ll leave you my love”の「戻ってちょうだい、そうすればあなたのためにわたしの愛をとっておくわ」か「戻ってきてごらん、わたしはあなたを棄て出ていくわ」か、どちゃこちゃわからんけどどっちもあるのが人間ではおまへんか、という「戯れ」によるがゆえの真実認識は期待できません。
 そのあたりのことが、硬軟取り混ぜた表現で語られているのが、この本の魅力的なのです。
 好きよ、嫌いよ、の痴話話めいたことと「言語活動が含有する詩的機能」が同じ重さ(軽さ)で語られる。なるほど表現文化学科、こんな芸当ができる分野を開発したとは。

「ビートルズの男の子たちの女性に対する意識はこうした思想と通底する。」
 なるほど、ビートルズって意外と伝統派なんだ。というか、人間というもの、まったく未経験の新しいものに熱狂するはずはないことを甲虫たちはよく知っていて、意識の深層をくすぐったのかも。
 ビートルズに見るイギリス文化論+男と女の深層心理学+レトリックのおもしろさ (一例「臨終をむかえた世界の心悸を想わせるドラムの響きで歌ははじまる。」 どうです、この 表現。ビートルズにしびれたことのないぼくだけど、この言葉のビートにしびれます。
「一番・二番という比較は男のランクづけではなく、じつは男と女の比較ではないか。」
 マジシャンの帽子から鳩が飛び出すのを見るような、でも納得しちゃうんだな、これが。
 日本でも「わたしバカよね、おバカさんよね」と歌っていた歌い手がいましたね。誰でしたっけ。青江美奈? 誰だったか忘れました。彼女の歌から「自己の肯定と否定という両立しがたい二つの現実」を引き出す論理は可能か、なーんて思いながら、詩的マジシャンMr. ウエミューラの言語操作に感嘆した次第です。

 テキストの「新しい意味を織る」〈ウラ・メロ〉は、著者の深い英詩の教養に裏打ちされたものであるだけに、誰にでもできることではありません。さりながら、この本は妙なる〈ウラ・メロ〉を楽しむことを誰にでもゆるしてくれます。
 ロックは聞かなくてもロックが「読める」。これマジシャンのなせるわざ。
〈ウラ・メロ〉はテキストを豊かにする。

 早く読ませてくれ、と息子が待っていますので、このへんで。