「花いちもんめ 石牟礼道子エッセー集」書評から

壇上で石牟礼さんは、終止ニコニコとして、邪気のない幼女のようで、何を発言してもソコハカとないユーモアがただよい、ユーモアいっぱいの真摯さで文学について、祈りについて、未知のものに対する食いつかんばかりの好奇心でパンクについて、町田〔康〕さん(またこの方が、美しく真摯なまなざしと声を持った方でしたよ)やわたしと語りあっておられた。(中略)
そしてこのエッセイ集は、まさにそのままの石牟礼さんが全開です。その上文章のリズムが、実にゆったりとしている。(中略)石牟礼さんの語る、日々のこと、季節の移り変わりや小さな失敗、思い出す人々、咲いた花、吹く風や鳴く猫についてのはなしを、くすりくすりと笑いながら聞いてるうちに、ふといったいわれわれはどこから来てどこへ行くのかなあという問いにまで、ひきずりこまれるようであります。(伊藤比呂美氏・詩人/熊本日日新聞 2005年12月18日付)

※伊藤さん、石牟礼さん、町田さんの公開座談会「祈りと語り」は2005年11月26日、熊本近代文学館で開催されました。

スローライフ、なんてぬるいことを言われると、「なにをしゃらくさいことぬかしとんじゃ。儂はぐんぐんのバブル外道でいったる」と思うが、本書を読むと、そこここに「神様」がいらっしゃり、暮らしのすぐ近くに、「無常」と呼ばれる死があった、かつての我々の意識や感覚を思って粛然とした気持ちになる。どういう訳か涙がこぼれる。
 世間に触れて右往左往する自身の魂を描く筆者のユーモアに笑みもこぼれる。(町田康氏・作家/読売新聞 2006年1月8日付)

台風の被害も土着の習俗も、後に優れた作家・歌人となる少女には大切な思い出。豊かな自然にふれながら、瑞々しい詩情を育んでいったことが分かる。(聖教新聞 2006年1月12日付)

水俣の風土との交感を通して、石牟礼自身の言葉で表せば、生命の源を探している。このエッセー集においてもその魅惑的な姿勢は変わらない。
 石牟礼道子は自分の中に愛すべき自然児を住まわせている。……自然児とは水俣の風土との交感ができるもののことだと言っておこう。(中略)
 人間界と自然界、あるいはこの世とあの世との境界を往ったり来たりできるような資質、狂気ではないけれど正常とも言えないと言い、そのころのさまよう魂のままに、いまはものを書いていると述べる。しかしすぐ続けて「もの」とはいったいなんのことだろうと自問している。(中略)「もの」とはここにおける馬に象徴される、このようなぞくりとする光景のことだ。夢なのか現なのか、夢幻と現実のあわいにさまよい入ってしまったかのような不思議な情感にとらえられる。(中略)
 くっきりした陰影のある暮らしを人々が送っていた時代が日本にあったのだ。そのことがなかなか信じられない。石牟礼道子の中の自然児は、読者に陰影を失ってしまったことの意味を問いかけてくる。(芹沢俊介氏・評論家/読売ウイークリー 2006年1月22日号)