第30回 あくがれる

前山 光則

 いちだんと寒くなった。そして、師走である。といっても、押し迫って来たという実感はまだあまりなく、雑事に追われるばかりだ。
 前回、乳井昌史氏の『南へと、あくがれる―名作とゆく山河』(弦書房)にちょっとだけ触れたのだが、「あくがれる」とはどんな意味か。これは、若山牧水の歌「けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴(なら)しうち鳴しつつあくがれて行く」を思い起こせばいい。古くは「あくがる」と言っていたのだが、「あく」は場所のこと、「がる」は離れていく、との意である。つまり、心が何ものかに惹(ひ)かれて、在るべき場所から離れてさまよう状態を意味する。著者の乳井氏は北の国・青森県の生まれの人であり、その人が南国・九州へと「あくがれる」のである。
 乳井氏とは逆に、南の方に生まれ育った人間は北の国をあくがれる。今、17、8人のご婦人たちと一緒に読書会で太宰治の「津軽」を読んでいるのだが、面白くてしかたがない。この作品が太宰文学の中で最も良い、とは多くの人が評するところだから、北へのあくがれがあろうとなかろうと面白いのではある。それはそうだが、
「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」
 竜飛(たっぴ)岬の集落のことを太宰はこう書いている。もう、理屈抜きに胸が騒ぎ始める。いや、九州や沖縄方面にも「極地」は存在するが、晴れた日には陽光が差す。道が尽きても目の前の海原は寒々しくない。これに対して太宰の筆になる竜飛は、どうだ。道が尽きた後は「海にころげ落ちるばかり」で、集落は鶏小屋みたいな不思議な空間と化すのだ。この暗さは胸がドキドキするくらい蠱惑(こわく)に満ちている、とわたしなどは思う。北の方に暮らす人たちから見れば、このような「あくがれ」は笑止千万であろう。しかし、笑われてかまわぬから太宰の書いた竜飛に行ってみたい!
 石川さゆりの歌に「津軽海峡冬景色」というのがあるなあ、と、今、思い出した。「ごらんあれが竜飛岬、北のはずれと/見知らぬ人が指をさす…」、あの歌は詞も曲も良いし、石川さゆりの歌い方がまた艶があってたまらない魅力だ。でも、歌い手本人は南国育ち、他ならぬわが熊本県の出身である。石川さゆりも北への「あくがれ」を胸に秘めているからあのようにも情感たっぷり唄えるのか知れぬゾと、ふと考えてみるのだが、どうだろう?

▲球磨川の朝霧。久しぶりに人吉市へ
朝から出かけたら、霧が深かった。
人吉盆地は晩秋から冬にかけて朝霧が湧くのだ