前山 光則
何日か前、郵便局に行ったら、若い男性局員から「そう言えば、山頭火のシーズンですたいね」と声をかけられた。ありがたいことであった。思えば、有志たちで立ち上げた日奈久温泉の町おこしイベント「九月は日奈久で山頭火」も今回で12年目である。事の起こりはこの連載コラム第18回で述べているので略するが、これまで細々ながらよくもまあ続いてきたものである。「そろそろ山頭火のシーズン」と言ってくださるほどに浸透してきたのだなあ、と感慨新たなものがある。
わたしなどは、あれこれ行われる催しの中のシンポジウムと、あとは少々手伝うだけだから楽である。だが、事務局の中心メンバーは1ヶ月通しての木賃宿・織屋(山頭火が泊まった宿。昭和5年当時の姿がほぼそのまま遺っているのだ)の一般開放、日奈久まちなかギャラリー(町内の家々の軒下に山頭火の句を書いた板が掲示される)、小崎侃(こざき・かん)木版画展の他、日奈久町並み再発見と称した見学会、織屋での俳句会、八代・日奈久の景勝地を歩く山頭火ウオークというふうに催しをこなして行かねばならぬ。俳句や絵手紙の募集もやっている。全員がボランティア、無私の精神がないことには務まらない。
わたしが係わる山頭火シンポジウムは、9月23日(金曜)、木造3階建ての老舗旅館・金波楼の大広間にて午後1時から行なう。今回は、『昭和の仕事』(弦書房)『放浪と土と文学と《高木護・松永伍一・谷川雁》』(現代書館)等の著作で知られるノンフィクション作家・澤宮優(さわみや・ゆう)氏を招(よ)んで、「現代の山頭火・高木護」と題して講演をしてもらう。澤宮氏は、社会の底辺にあってたくさんの仕事を経験しつつ放浪を重ねた詩人・高木護(たかぎ・まもる)の作品と生涯を、山頭火のそれと重ねたり比較したりして存分に語ってくれると思う。
今回は、山頭火ばかりを愛好するのでなく、もっと視野を広げた上で放浪・漂泊について考えましょうよということで企画した。澤宮氏の講演の後、氏を囲んでの大座談会も行なう。昭和15年に四国松山で逝った種田山頭火、かたや高木護は昭和1年に熊本県の鹿本で生まれ、諸処を放浪した末に東京でまだ健在である。2人にはどんな共通点や違いがあるのか、みんなで遠慮なく議論してみたい。
会場の金波楼の大広間がまた明治時代の建物の風情を濃厚に湛えており、とても良い。わたしは、どうもコンクリート造りのホールでの文化的催しが苦手で、なんかこう、尻がこそばゆくなってしまう。それに比べて旅館の大広間は、旅芝居を観る気分になれる。山頭火シンポジウムは、こういう場所がふさわしい、と、常々思っているのである。
その日は、せっかくならカラリと晴れてほしいなあ。大広間の窓を開けて、吹き来る風を全身で感じ取り、空行く雲をしみじみ眺めた上で開会したいものである。