第81回 今、手元に球磨焼酎の本

前山 光則

 今、出来たてホヤホヤの本『球磨焼酎——本格焼酎の源流から』(弦書房)を手元に置いて眺めている。表紙には、八代市在住の写真家・麦島勝氏が昭和38年11月に人吉市内で撮影したという写真が使われている。知らぬ同士が貸し切りバスの窓から互いに身を乗り出して焼酎をやりとりしており、「ま、ま、1杯」「おっとっと」なんて声が今にも聞こえてきそうで、これは飲酒欲をそそられるなあ。
 本格焼酎の産地といえば球磨焼酎以外に沖縄・鹿児島・宮崎・大分等が挙げられるが、そのいずれもがご当地焼酎の歴史・伝統について詳述した本が何冊も書かれている。ところが、500年以上の長い歴史を有する球磨焼酎については、なぜか今までまとまった著述が、少なくとも一冊本のかたちでは見られなかったのである。そこで、よし、がんばってみよう、と6名の人間がチームを作り、足かけ5年で仕上げたのがこの本である。
 実はわたしもチームの一員として聞き取りをしたり資料文献を読んだりして執筆にあたったが、いや、しんどかった。だが、それでも収穫の方がずーっと多かった。たとえば、わたしは人吉市の町なかで育ったから、近所に醸造元があった。球磨焼酎は米製ということで知られるが、焼酎の仕込みの時期には米以外にカライモの匂いもただよってきた。これは戦争が終わった後、5年間ほど全国的な米不足のため米焼酎が造れなかった。ようやく米が使えるようになっても充分には入荷しなかったために、カライモを混ぜなくてはならなかったのだ。だいたい昭和40年代前半頃まではそれが続いたわけで、つまりわたしの幼少年期というのは、伝統の球磨焼酎にとって最も苦しい時期だったことになる。ははあ、自分たちが何気なく眺めたり鼻で嗅いだりしていたものは、そのような事情を抱えていたのか、と、聞き取りや資料調べなどしながら深く頷いたことであった。ありきたりな言い方かも知れないが、球磨焼酎の歴史、それはまた地域の歴史であり、ひいては時代の大きな流れと不可分のものだ、と痛感した。
 球磨焼酎はどこまで歴史がさかのぼれるのか、江戸時代にはどんな呑み方をしたか、清酒は造らなかったのか、昔と今では同じような味なのか等々、それぞれの執筆者が球磨焼酎の謎を解き明かしてくれているので、飲んべえも下戸の方々もぜひ読んで欲しい。
 小さい頃から焼酎の臭いを嗅いでいたせいか、大きくなって球磨焼酎にすんなり馴染んだ。嬉しい時、怒った時、哀しい時、楽しい時、しばしばかたわらに焼酎瓶があった。球磨焼酎にはずいぶんお世話になってきたわけで、俺は球磨焼酎に恩返しするため共同執筆に加わったのだよな……と呟いている内に今日も日が暮れてきた。うん、そうだ、久しぶりに(?)球磨焼酎で晩酌しようかな。
 本年も、どうぞよろしく!

▲懐かしの焼酎レッテル。「稲の露」「勝星」「市房」「球磨娘」「園の露」、いずれも廃業してしまった醸造元のレッテル。それぞれ味わいがあったのになあ……

▲「岳の露」四合瓶。陶器製で、昭和40年代前半頃のもの。岳の露酒造(現在の六調子酒造)が造っていた焼酎であり、これがまた実にうまかったのだ!