前山 光則
この頃、近くの球磨川で青海苔採りが行われている。春が近づいているのである。とはいえ、2日前に友人たちと熊本市近郊の植木市を見に行った時は雪が舞って実に寒かった。
寒い時、温泉は良いものだ。わたしの住む熊本県八代市には日奈久(ひなぐ)温泉があるので、よく出かける。家の風呂と違って体の芯から温まるし、湯の匂いが好きだ。温泉は地下の深いところから湧いてくるわけだが、浸かっていて「地球って良い匂いなのだなあ」といつも感心する。自分の趣味・道楽は温泉入浴だ、と言い切ってかまわない。
でも、祝部幹雄(ほうり・みきお)・著『別府八十八湯名人への道《ぶらり湯の町・親子の入湯日記》』(弦書房)にはまいった、感心した。日本有数の温泉郷である大分県別府市では、市内の143カ所の温泉を対象にしてそのうちの88カ所の入浴を果たした人を「名人」に認定するというスタンプラリーがあるのだそうだが、著者は新聞記者としての忙しい仕事のかたわらこれに挑戦したのである。それも、自分1人でなく、愛娘(まなむすめ)を伴っての入湯である。時折りは奥さんも同行するし、やがては男の子も生まれて、最初は入湯は無理だがやがて一緒に入れるようになる。またなんという恵まれた親子関係であろうか、と、ほほ笑ましさに溜息が出た。
魅力的な温泉が次つぎに出てくる。「鶴見七湯廻記」という古記に登場するところや、昔は田んぼの中にあった温泉、気候によって微妙に湯の色が変わる温泉、広大な露天風呂、青い色の湯を湛える温泉、壁はタイル張りで天井の木目が美しい風呂場なのになぜかケロリンのプラスティック桶が似合うという温泉、温室を改造したという温泉では、入浴しながら観葉植物をめいっぱい観賞することができる……ああ、なんとゼイタクなことか。
このように人もうらやむ88カ所温泉巡りだが、途中でドラマが展開する。それというのも、愛娘の成長が2人のきずなを揺さぶるのだ。はじめの頃まだ3歳だった彼女は、おしゃまな口を利きながらもあどけなく父親にぴったりくっついて入浴を楽しむ。それが、やがてお父さんとばかりではイヤだ、お母さんと入りたい、と言い出す。父と娘との間にケンカ状態も生じる。果たして名人襲名へと無事到達できるだろうか、とハラハラするのもこの本の楽しみ方の一つだ。
幾多の難関を払いのけて、父娘は平成23年2月12日に第2467代・第2468代名人を襲名する。めでたし、めでたし。そして、この時、愛娘は5歳。もうこれからは、ごく自然に父親と距離を置くに違いなく、まさにあやういタイミングでこの親子入湯日記は成立しているのである。
家族って、こんなに睦み合える。温泉好きな人はもちろんのこと、これから結婚しようという若い人たちも読むべき本だと思う。