第99回 バナナの話

前山 光則

 5月21日早朝の金環日食は空が曇っていてハラハラしたが、辛うじて雲間に見ることができた。そしてあの日以後も天気はすっきりせず、これは梅雨入りが近いのだろうか。
 今、『日本大歳時記』を開いている。なぜこの本を見てみるかと言えば、きっかけは物置の奥にあった資料類を整理していたら、中学2年生の時の修学旅行のメモが出て来たのである。それは昭和36年のことで、10月5日に人吉を出発して島原半島・長崎・佐世保・福岡と巡る3泊4日の旅であった。佐世保で、宿の夕食が貧弱で腹が満たなかったのか、級友から1本33円のバナナを20円に値切って譲ってもらい、食べている。こんなこと、まったく忘れていた。わたしはせこい中学生だったのだ。でも、思えばあの頃、バナナはなかなか買えない果物であった。その証拠には、次の日の宿は福岡市の那珂川べり、新柳町の旅館だったが、やはり食事の量が足りず、夜こっそり抜け出てラーメン・おでん・豚足を食っている。その時のラーメンが1杯50円なのである。佐世保のバナナを値切らずに2本買うなら66円になってしまい、このラーメンよりも金がかかるわけで、現在はそんな馬鹿高いバナナはあり得ない。
 で、そのメモを見た後、バナナって俳句の季語にはなっているのかな、と、ふと興味が湧いたのだった。この『日本大歳時記』に、バナナはちゃんと載っている。「甘蕉(みばしょう)」とも言うのだそうで、実の生(な)る芭蕉か、なーるほど。そして、夏の季語になっている。四季を問わず売られてはいるものの、やはり南方の果物である。夏の季語とするのが自然なのであろう。例句としては、

  川を見るバナゝの皮は手より落ち     高浜虚子
  瓦斯の灯にバナナを買ふや漁夫親子    加藤楸邨
  夜の航武器のごとくにバナナを持ち    金子兜太
 
 いずれもほほえましい生活の一こまが詠まれている。バナナは多くの人たちに愛されているのだ。さらに、ハッと閃くものがあった。思えば、わたしは、毎日のようにバナナを食べる。黄色い皮を剥く。柔らかな中身が現れて、口に含むとやんわりした食感。自然な甘みが心地良い。毎日口にしていながら飽きない。ということは、自分は……。
 そう言えば、中学時代のことを忘れていた代わりに小学6年生の時の鹿児島への修学旅行のことはよく覚えていて、あの時は動物園の売店でモンキーバナナが1本5円で売ってあって狂喜した。思い切って家への土産にと一房買ったのである。ところが、帰りの列車の中でひもじさに負けて1本、2本とつまみ食いしてしまい、帰り着いた時にはだいぶん減っていた、と、そのようなことがあった。
 ……自分は小さい頃から相当にこの南洋の果物を好んできたのだ。これまで考えたこともなかったが、ようやくにして気づいたなあ。

▲わが家のユスラウメ。大きい実でも直径1センチしかないが、毎年びっしり生(な)る。赤く熟するのが5月の終わり頃で、これを見ると梅雨が近づいているなあ、といつも思う

▲旅行のしおり。学校から配られたこういうものも物置から出てきた。ガリ版刷りである。まるで活版のようにきちんとしたきれいな字で、刷りも良く、感心してしまう

▲家の者が買ってきたバナナである。いつもより安かったそうで、値段は一房198円。たっぷり食えるゾ