第105回 河童を想う

前山 光則

 あるところから、河童を主題にして子ども向けの読みものを書かないか、と勧められた。自信がないから辞退したが、わが八代は河童伝説では結構知られている町である。だからわたしなどにも声がかかったのだろう。
 わたしの住む球磨川三角州の向こう岸に「河童渡来之碑」がある。そこらは昔、徳渕の津と呼ばれる港だったが、なんでも今から1600年程前、頭の上に皿のようなものを載せ、毛深くて、泳ぎの上手な者たちが中国大陸からやって来た。彼らが徳渕一帯の魚を獲るのを付近の人たちは目をパチクリさせて眺め、いつしか彼らを河童と呼ぶようになったそうだ。こうした渡来人的河童については遠く中央アジアやトルコ方面にまでルーツが求められたりして、とてもグローバルである。
 わたしが生まれ育ったところは八代よりも60キロほど上流の人吉盆地だが、河童のイメージが違う。小さい頃を過ごした家のすぐ裏に球磨川の支流の一つ山田川が流れていた。祖母は、「夕暮れ時に川で口笛吹いちゃならん。川ん太郎が出て来て、攫(さら)わるるバイ」といつも厳しく戒めていた。人吉方面ではこの「川ん太郎」が河童である。これに対して「山ん太郎」もいて、牛島盛光・著『日本の民俗・熊本』によれば川ん太郎と山ん太郎は2月1日に交代するのである。では、川ん太郎はどのような姿かたちをしているか。これが、ちっとも分からないのだった。一度だけ祖母の教えに背いて薄暮の河原で「ピイイ」と鳴らしたら、とたんに全身が寒ーくなってきたから気味悪くなり、家に逃げ帰ったことがある。あれは川ん太郎つまり河童が現れかけていたのだったかも知れない。
 この人吉盆地の河童と八代の渡来人的河童は、つながるものなのだろうか。あるいは、関係ないのか。八代市で生活するようになって33年にもなるが、いまだにピンとこない。
 ついでに言えば、小さい頃に川ん太郎の気配におののいた後、山田川で堤防工事が始まった。河原にセメントや砂利等を運搬するためのレールが敷かれ、トロッコが行き来した。子どもらは河原に臨時の鉄道が出現したものだから大喜びで、熱心に見物した。トロッコからこぼれ落ちたセメントの粉を川に捨てると、魚がセメントの灰汁(あく)に酔ったようにして浮かんできて、たやすく捕らえることができた。川魚たちには可哀相なことをしでかしたものである。工事が休みで大人がいない日には、トロッコに乗ったり押したりして遊びほうけた。やがて、工事が終了した時、川の両岸はコンクリートで固められてしまっていた。あれ以来、日暮れどきに河原で口笛を吹いてもまったく寒くならなかったが、堤防の完成と無関係でないような気がする。
 そのような次第で、久しぶりに幼少の頃を思い出した。でも今の時代、子どもらはあまり川で遊ばない。河童連中もヒマだろうなあ。

▲河童渡来之碑。球磨川の分流・前川の右岸堤防上にある。昭和29年6月に地元の史跡保存会によって建立されたのだそうだ

▲河童像。河童渡来之碑のすぐ近くにあって、ここは昔の薩摩街道で、札の辻と呼ばれていた。愛敬のある大きな河童が盃を手に持って、これはどう見ても酒好きなのである

▲人吉市の山田川。昭和30年頃と42年頃の二度にわたって堤防工事が行われ、その都度川幅が狭まった。その代わり川底は深く掘られて、昔とはすっかり様変わりしてしまった