前山 光則
11月30日と12月1日、8人連れで山口市の湯田温泉に行った。湯田にはなにかと縁があり、もうこれで何度目だったろう。
湯が良い。泊まった宿の源泉掛け流しの風呂に夜も翌朝もみっちり長湯した。透明な柔らかい湯で、熱くなくぬるくなく適温だ。みんなとペチャクチャ喋って湯に浸かっていれば、おのずから時間が経つわけである。
わたしたちの泊まった西村屋という旅館は、詩人の中原中也が結婚式を挙げたところなのだそうである。全集に載っている年譜によれば中也が結婚したのは昭和8年12月3日、そのときの部屋がまだあるとのこと。ずいぶんと新しい造りの宿なのに、そういう部屋が遺っているわけ? と訝(いぶか)しい気持ちだったが、案内通りに進んでみると確かに奥に古いけれどもきれいに整った大広間がある。へえ、ここがそうなのか。中原中也は酒を呑んだらわりと周囲の人に絡む性癖があったが、結婚式のときにはいたっておとなしかった、と母親の福さんが語っているのを本で読んだことがある。部屋を覗きながら詩人の神妙な顔つきが偲ばれて、良い物を見たなあ、という気分だった。山口県が生んだ文学者といえば、最近ではもっぱら放浪の俳人・種田山頭火とか童謡詩人の金子みすゞが話題にされる。しかし文学者としては中原中也のほうがずっと大きな存在だゾ、と言いたい。若い頃、さかんに読みふけったなあ。中也の「風が立ち、浪が騒ぎ、/無限の前に腕を振る」という「盲目の秋」冒頭のフレーズがよみがえってきて、とても元気が湧いてきた。
西村屋には山頭火の直筆も遺されていた。それを、連れの1人が強引に頼み込み、宿を出る前に全員で拝ませてもらった。色紙・短冊に「雨ふるふるさとははだしであるく」「けふの道のたんぽゝさいた」「うごいてみのむしだつたよ」と記されている。山頭火は昭和7年9月から13年11月まで山口市の西隣り小郡の其中庵で暮らした後、湯田温泉に住まいを移す。そこを風来居と称して翌14年9月末まで住むが、この宿屋へ訪れることがあったようである。だからこそ3枚も直筆の句が遺されている。「力強い筆蹟だなあ」と連れの1人が声をあげた。いや、本当だ。1字1字しっかりして力がこもっており、凛として気迫が感じられる。山頭火といえば歩んで行く後ろ姿や酔って蹌踉(そうろう)としてふらつく様子などを思い浮かべがちだが、宿屋に遺された3枚に限ってはスッキリ背筋を伸ばした立ち姿を想像したくなった。
宿屋の近くの中原中也記念館にもみんなで行った。ここは何度も来ており、展示物を見てまわっていると毎度自分が新鮮な気持ちを得ているなあ、と気づく。ただ、以前ここでは中也の詩「骨」を石原裕次郎が唄っているのをイヤホンでしんみり聴けたのに、今回はダメで、それだけは残念でさみしかった。