前山 光則
先日、水俣市に住む書道家・渕上清園氏のところへ遊びに行ったら、「赤崎覚(あかさき・さとる)の書いたものを、見てみらんな」と短冊を出してくださった。毛筆で「闇に裂く魔山の石」とあり、下には「覚」と名が記されている。ああ、赤崎さんが亡くなってずいぶん経つなあ。熱いものがこみ上げてきた。
清園氏は昭和2年の生まれだが、赤崎さんと同級生だという。小さい頃から仲良しで、小学校でも一緒に机を並べていた。書方選賞会が催された時、清園氏は一等賞を目指して一所懸命に書いていた。ところが、「天」という字を書く時、なんの拍子にか右横にいた赤崎さんの肘がドンと当たり、最後の一画分が勢いよくはね上がってしまった。赤崎さんは気にする、清園氏は落胆する。だがそのまま提出したのだった。ところが、その書作品がなんと一等賞に選ばれたのだという。書いた本人としては予期せぬことだったろう。かたや肘をぶつけてしまった方だが、「赤崎はな、小躍りして喜んだとバイ」、清園氏はそんな思い出話を嬉しそうに語ってくれた。そして、短冊の字であるが、大人になって赤崎さんが遊びに来た時、清園氏が無理やり書かせたのだそうだ。短冊をしみじみと見ながら、氏は「わしゃ書家じゃが、この字には勝たん」と呟いた。いや、ほんとに味のある字だ。
短冊を見せてもらった日、家に帰ると久しぶりに焼酎を呑みたくなり、チビチビやりながら赤崎覚さんの面影を偲んだ。赤崎さんは、水俣市役所に勤めていた頃、石牟礼道子氏に水銀中毒(水俣病)の実態を教えてあげた人なのだが、自分でもいろいろ書いていた。わたしが熊本で出ていた雑誌「暗河」の編集を手伝っていた頃、赤崎さんは「南国心得草」と題した好エッセイを連載していた。こちらから御自宅に押しかけて、徹夜で書いてもらうことしばしばであった。一字一句、訂正なしで原稿用紙のマス目に字が埋まっていく。短冊に見るような良い字だ。だから読みやすい原稿となるわけだが、これがなかなか先へ進まないのである。しかも、油断してちょっと目を話せばドロンと姿が消える。深夜の水俣の町なかを探し回ると、赤崎さんは居酒屋で焼酎を舐めている、といった按配だった。
赤崎さんは平成2年1月13日に亡くなられた。お葬式の時に各方面から寄せられた弔電の中で、谷川雁氏のが際だっていた。「まじりけのない/ひとくれの土よ/何もかもそのままに/静かに変わっていけ/降る雨は今日から/君の酒になる」——赤崎さんは雁氏を敬愛していたが、雁氏もまた年下の友人の死が真底悲しくてならなかったのである。
そんなふうに、思い出が次から次に甦った。
だが「闇に裂く魔山の石」とは、何が言いたかったのだろう。意味不明である。好人物だった赤崎さんの胸の内の、他人には明かさなかった闇がかいま見えるような気もする。