第141回 『終戦覚書』を読む

前山 光則

 最近、親しい友人から高木惣吉著『終戦覚書』の原稿コピー本を借りて読んだ。第二次大戦時、海軍少将という立場で戦争の早期終熄につとめた人の著書で、敗戦後間もない昭和23年3月、弘文堂から出版されている。
 昭和17年5月の珊瑚海海戦・6月のミッドウエイ海戦あたりから始まり、20年8月15日の玉音放送に至るまでの日本の負け戦(いくさ)の過程が、万年筆で、ていねいな字で書かれている。文章も平易でたいへん読みやすく、客観的記述に努めながらも軍の内部の生々しさがグングンと伝わってくる。こういう記録は貴重なものだと思う。高木は体があまり強くなかったせいもあって、戦場に出た経験はほとんどない。そのかわり軍の中枢部にいたから、戦争全体の動きを広い視野と考察力で見渡せる立場にあったのである。
 中でも印象に残ったのが、昭和天皇の発言である。昭和20年8月9日の午後11時55分から始まった御前会議がポツダム宣言を受け容れるかどうか、結論が出ない。夜更けて10日となった午前2時、天皇が「それでは私が意見を言うが……」と前置きした上で、これ以上戦いを続ければわが民族だけでなく人類の文明をも破壊してしまうことになるから、「忍び難きを忍んで」平和への道を求めよう、と自分の考えを述べる。さらに14日、宮中防空壕内での御前会議でも「ことここに至っては、国家を救うの道は、たゞこれしかないと考えるから、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んでこの決心をしたのである」云々と自身の所信を表明した上で、翌15日の玉音放送となるのである。わたしは、今まで迂闊にも玉音放送は側近が作文したものを天皇が読み上げただけなのかな、ぐらいにしか考えていなかった。だが、そうでなく、少なくとも「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という表現は、すでに天皇自身が肉声として発していたのだと、高木の『終戦覚書』ではじめて知った。玉音放送には昭和天皇自身のギリギリの思いが籠められていたわけである。
『終戦覚書』に感銘を受けたので、長年書棚に置いたままだった岩波新書『太平洋海戦史』にも手を伸ばし、一気に読んだ。高木のこの本は版を重ねただけあって、真珠湾攻撃から無条件降伏に至るまでの記述が詳細で、記録として価値の高い一冊だと感心した。
 高木惣吉は、明治26年8月19日、熊本県球磨郡西瀬村(現在の人吉市矢黒町)に生まれている。戦後は神奈川県茅ヶ崎市で著述の日々を送り、昭和54年7月27日、85歳で亡くなる。高木の生まれ育った矢黒町はわたしとしてもなじみ深い一帯で、すぐ近くを球磨川が流れ、小高い丘もある。よく遊びに行っていた。ここから終戦工作という重大な仕事をし、大戦の詳細な記録を書き残した人物が出たのだな、と思うと、同郷人という親しさ以上の不思議な感慨が湧いてくる。

▲人吉市内の球磨川。人吉盆地は霧の発生率が高く、特に秋から冬にかけてが多い。下流に向かって左手が高木惣吉の生まれ育った人吉市矢黒町で、生家は小高い丘の麓にあった(平成24年10月8日撮影)