前山 光則
歌手の藤圭子が8月22日に東京都新宿区西新宿のマンション13階から転落死した、というニュースには驚いた。マスコミの報道や娘の宇多田ヒカルのコメント等によれば、長いこと心の病いが続いていたらしい。
感情を表に出さぬ顔つきやサビの利いた低音が最も強くファンを惹きつけたのは、昭和45年の「圭子の夢は夜ひらく」ではなかったろうか。当時、わたしなどは夜間大学生であった。あの頃は、この歌の他にも「時には母のない子のように/だまって海を見つめていたい……」(カルメン・マキ「時には母のない子のように」)や「うまれた時が悪いのか/それとも俺が悪いのか」(ブルーベル・シンガーズ「昭和ブルース」)等、日本社会の繁栄ぶりに背を向けるタイプの歌が流行って、よく好んで口ずさんだものであった。
インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」を覗いてみて初めて知ったことだが、「夢は夜ひらく」には実は原曲があり、もともとは東京の練馬少年鑑別所でうたわれていた。それを作曲家の曽根幸明が採譜し、補作してから世に出ることとなったのだという。園まりがこの歌をうたったのが昭和41年で、中村泰士・富田清吾両人によって作られた詞は、「雨がふるから逢えないの/来ないあなたは憎い人/濡れてみたいわ二人なら/夢は夜ひらく」、こんな調子である。女の側から好きな男へのちょっぴりすねた気持ちを表明して呼びかける「演歌」であり、冗談気味に「艶歌」と言ってもかまわないだろう。園まりの色気ある顔つきと甘ったるい声が歌にマッチしてヒットした。他にもバーブ佐竹、三上寛、梶芽衣子等がこの歌をうたった。だが、やはり昭和45年になって出た石坂まさをの詞による「圭子の夢は夜ひらく」が段違いに良いのではなかろうか。「紅く咲くのはけしの花/白く咲くのは百合の花/どう咲きゃいいのさ/この私/夢は夜ひらく」、これを藤圭子が無表情にハスキーな声でうたうと、もはや「演歌」ではない。世の中の不幸を一身に引き受けて絞り出す怨み節、そう、「怨歌」と表記すべき凄みがあったのである。
ただ、藤圭子も近年は宇多田ヒカルの母親として知られる程度であった。昭和から平成へと時が流れていくうちに、「怨歌」の存在感はいつしか薄れてしまっていた。精神的な病いも相当苦しかったろうが、世の中の移りゆきを感じつつ生きるのもつらかったろう。
ともあれ、昭和44年、18歳の時に「私が男になれたなら/私は女を捨てないわ/ネオンぐらしの蝶々には/やさしい言葉がしみたのさ/バカだなバカだな/だまされちゃって……」、この「新宿の女」で世に現れた歌手が、他ならぬ新宿で命を断った。新宿5丁目の芸能浅間神社には、「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑もある。この歌手は新宿の猥雑さが似合うひとだったのかな、と、今、思う。