第176回 「のさり」について

前山 光則

 今年になってから手にした本では、石牟礼道子氏の自伝『葭の渚』が断然おもしろい。391ページの大冊だが、一気に読み通した。
 熊本県の下天草島で生まれ、程なく水俣へ移り、はじめは町なかで生活した後、やがて海辺の方の通称「とんとん村」で暮らす。ここが書名の示す「葭の茂る渚」だったわけである。若くして代用教員になり、結婚し、ものを書くようになる。水俣を二分する程の騒ぎとなったチッソの安定賃金闘争に一市民として関わったり、「奇病」と呼ばれていた水俣病の実情に接して深く関与したりする中からこの作家の本格的な執筆活動も始まってゆく。水俣病を描いた『苦海浄土』で世に出て以後、たくさんの作品を生み続けてきたことは広く知られているが、そのような作家自身の幼時から今までが存分に語られている。
 石牟礼氏の育った水俣川の河口近くとんとん村の昔を回想する場面が、本書の中で最も印象深い。とんとん村には、葭の茂る間を幅二メートルほどの小さな川が流れていた。現在ではコンクリートで塗り固められ、悪臭を放つドブでしかないが、きれいな水が流れていた頃、どのような場であったかといえば、

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「川筋はいつもにぎわっていた。洗濯にくるお内儀(かみ)さんや、手網の柄を持った少年たち、ウナギ籠を持った男の人などなど。お内儀さんたちが洗濯物をかかえて集まると、井戸端会議ならぬ、川端会議が始まり、高い笑い声が田の面(も)を伝って聞こえてくる。誰々さんの声だとすぐに分かるのだった。誰の家で何が起きたかも」

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 そこは村のコミュニケーションの場であり、洗濯場であり、ウナギ漁のできるポイントであった。子どもたちはエビやフナを掬って、女の人たちはシジミを掘った。つまり水俣の方言でいう「のさり」である。これは「天からの授かりもの」という意味で、幸運や不運・不幸も含めてそう表現するのだが、獲物は家で御飯のおかずとなった。「食物採集は仕事というより、牧歌的気分を伴う遊びでもあった」と石牟礼氏は述べる。童女は、とんとん村で人間たちが自然と共生するさまをたっぷりと見て育って感性を蓄えたのである。
 こうした下地があるから、水俣病問題に係わる中で石牟礼氏は漁民の杉本栄子さんのいう独特の「のさり」観にもちゃんと感応できるのだと思う。水俣病患者として苦しみ、闘った末に、杉本さん一家は「のさり」ということを積極的に受け止めようと発起する。「人を恨むな。人は変えられん。自分の方が変わらんば」と考えるに至るのである。だから、晩年の杉本栄子さんはしきりに「水俣病はわたしののさりだ」と口にしていたという。
 石牟礼氏もまたとんとん村での牧歌的な「のさり」を超えているはずである。だから杉本栄子一家の考え方に正当に感応することができるわけで、石牟礼文学世界にはこうした深さと強さがある。そう痛感した。

▲晴れた日の不知火海。高台から眺めわたす時、ここが水俣病の発生した海であるとは信じられないほど美しい