第238回 湖底を案内した時のこと

前山 光則

 石牟礼道子さんの最新エッセイ集『ここすぎて水の径』(弦書房)を、堪能して読んだ。
全部で四十七篇のエッセイが収められているが、後半の「古屋敷村」「石の中の蓮」に恥ずかしながらわたしと家の者が登場する。それは熊本県水上村、球磨川最上流部の市房ダム湖底へ案内した時の話なのである。石牟礼さんを、二度、そこへ連れて行っている。
 最初はわたしたち夫婦がダム湖の近く水上村岩野地区に居た頃で、確か昭和53年2月だった。ダム湖が渇水のため広々と湖底をさらしていたので、女房と一緒に案内した。その時のことが「古屋敷村」には書かれている。
 
 
「わたしは湖底に向けて、しんから耳をすました。子供たちの走りまわる声や、村道を馬車のわだちの音が聞こえては来ないか。四人とも、ひしと水面の底をみつめてなにかを聴いていた」
 
 
 この折りの印象が強烈で、小説「天湖」の構想が湧くきっかけとなったようである。
 再度案内したのは平成6年9月20日のことである。本来なら、水の多い時季。だがその年は雨がひどく少なくて、その5日前には河口の球磨川堰下が干上がり、水溜まりに鯉や鮒や鰻たちがかたまっていて容易く手掴みできた。まして9月20日は、市房ダムの湖底はカラカラであった。石牟礼さんと熊本日日新聞社の高嶋正博さん・わたしの3人で出かけ、乾いた湖底へと降りた。昔の村の中心地であったダム堰堤方面へと歩いてみたのだったが、墓場や小学校や発電所やらがあからさまに日に照らされていた。その時のことが書かれているのが「石の中の蓮」である。
 
 
「赤んぼの墓碑がいくつかあった。愛らしく作られていた。印象ぶかいのは、墓石の額に、蓮の花が一輪、刻みこんであることだった。だから墓碑たちは、蓮の印を一輪、額につけてもらって、湖底に眠っていたことになる。ちょっと目には彼岸花のようにも見える簡略な線描の蓮が、乾いた水苔の下からのぞいているのを見て、わたしはほっとした。墓石をそのように作るのは、この地方の習いかもしれないが、どこの石工の手がこの墓を刻んだのだろう。出来上って遺族たちと墓地に運び、このように横に寝かされるまで、どんな人びとのやりとりがあったのだろうと想像した」
 
 
 石牟礼さんの観察の細やかさや思いの深さには、感心してしまう。赤ん坊の墓などがあったのだなあ……、情けないことに、案内していてこちらはボーッとしていただけだった。あの日は、湖底をさ迷った後、ダム建設による立ち退きで隣村へ移り住んだ人たちの家へも訪ねて行き、話を伺ったりもした。
「天湖」の連載が「週刊金曜日」に始まったのはその3日後、平成6年9月23日号からである。翌々年の11月22日号まで続き、9年に単行本化された。なんだか、もうずいぶん前のことだなあ。ため息が出て来る。
 
 
 
写真 石蕗の花

▲石蕗(つわ)の花。庭の隅に、今、咲いている。おや、早いなあと驚いたが、近所を散歩しながら観察すると、至る所に見ることができた。今まで気づかなかっただけだったのだ