第247回 或るタイムトリップ

前山 光則

 人吉市に住む井上道代さんから久しぶりに近況報告の便りをいただいた。郷土のフリーペーパー誌に連載しているという「昔人の聲」と題する歴史エッセイの抜き刷りも同封されており、それには八代御仮屋(おかりや)のことが綴られていた。「御仮屋」跡、これはわたしの住んでいる近くのところを球磨川が流れているが、その川に架かる植柳橋(うやなぎばし)を渡ってすぐ右へ折れた一帯のことである。植柳上町という町内で、わが家からの距離はせいぜい2キロぐらいのものだろう。そこらから海まではもうすぐで、だから川には海の潮が入るし、漁船の船溜りがある。町内に入ると民家のほかに神社や寺や小公園もあって、とても落ち着いた雰囲気である。
 さてその御仮屋について、井上さんの文には「人吉藩は領内の産物や諸品々を各地に運ぶ中継地として、球磨川河口の八代に船役所を置いていた。肥後藩からの借地である。この御仮屋居住の一二一軒の人々は、江戸時代初期に薩摩国出水から移住してきて、船関係の仕事をしながら明治維新まで、相続をつないできた家系である」と書かれている。エーッ、そうだったのか。ここ八代からわがふるさと人吉までは、球磨川沿いに60キロ弱。中世期までは人吉の相良氏は旺盛に外へ出向き、一番壮んな頃には八代・宇城・水俣方面をも領していたが、近世に入ると現在の球磨・人吉地方内に逼塞してしまう。だから領内に海を持たなかったわけである。ただ、江戸時代の初めの頃に加藤正方が八代城を築く際に相良氏に材木の提供を要請した際、その見返りとして相良長毎は港に要する土地の借用を願い出た。それが御仮屋だ。だから時たま植柳上町を散歩すると、ふるさとに来たような親近感を覚えるのである。しかし、その御仮屋に121軒もの家があったとは知らなかった。天明4年(1784)には御仮屋の勤務総人数は170人だったそうだ。家禄は全員二人扶持。当然のことながらその家族も居たろうから、全居住者数はずいぶん多かったことだろう。さらにまた、出自が薩摩国出水(現在の鹿児島県出水市)であるなどとは、これはちょっとビックリしてしまった。
 そうか、御仮屋の人たちは薩摩の出水からやって来たわけか。海事に慣れているから招聘されたのだろうか。まるで外国語みたいに薩摩弁が飛び交っていたのかな。現在、御仮屋跡から河口までは約5キロだが、相良氏が加藤氏から借り受けた1600年代初め頃にはまだ不知火海に面していたはず。あのあたりから下流が干拓で陸地化されるのは、1700年代に入ってからのことだからである。船は八艘あったのだそうだ。波打ち際も役所の方も、いつも結構賑わっていたことだろう。
 井上道代さんの歴史エッセイに触発されてあれやこれやと想いがふくらみ、これは遠い時代の時空への「旅」だな、と嬉しくなった。
 
 
 
写真①御仮屋跡

▲御仮屋跡。お堂の左手に白い標柱が見えるが、「球磨仮屋跡」と記され、御仮屋についての説明文も書かれている

写真②御仮屋跡界隈

▲御仮屋跡界隈。球磨川堤防から見下ろした眺め。御仮屋は球磨川に沿って約600メートルの長さに家々があったことになる。往時は堤防もなく、水際すぐから家が並んでいたのだという。道は今でも狭くて、入り組んでおり、ラビリンス状態である

写真③堤防から見た球磨川河口方面

▲堤防から見た球磨川河口方面。彼方に二つ盛り上がりが見えていて、右が小鼠蔵(こそぞう)山、左が大鼠蔵(おおそぞう)山。両方とも元は島で、あのあたりは1800年代中頃の干拓により陸地化している。大鼠蔵の左手が河口だが、流れがカーブしているため不知火海は見えない