前山 光則
3月14日の朝、小雨がパラつくが、ええい、かまうものか。一人で安里川を上流へと辿ってみた。レンタサイクル店で電動アシスト自転車を借り、午前10時半頃からゆいレール牧志駅前を出発したのである。
この安里川、牧志駅付近では完全に都会の河川だが、ちょっと進んだらすぐに渓流と化した。水がゴンゴンと勢いよく躍って岩を噛むが、でもまだ周囲は全くの市街で、上方をゆいレールが走行する。渓谷であると同時に都会の住宅地でもあるという、ヘンテコリンな景観だ。故・島尾敏雄氏が紀行風エッセイ「安里川溯行」(「海燕」昭和60年9月号)の中で「都会の喧噪の中を流れているにも拘らず、私はあの大峰山中の渓谷での危険と接した顔付きを見たようにも思えた」と書いている通りの展開だ。実は、このエッセイを読んで安里川を辿ってみたくなったのである。そうするうち、道は川から離れて狭い迷路に入り込む。川の方へ近づこうとしても、行き止まり。この繰り返しである。「安里川溯行」は、当時、毎年冬には那覇の大道界隈に家を借りて過ごしていた島尾氏が、ある時この川を溯るという試みに挑戦してみた、その時の様子がレポートされているのだが、氏は那覇の市街地の特徴を「ラビリンス」つまり迷路とみなしている。那覇の街の成立過程に関わる指摘である。そう、これはまたなんという変化に富んだ街だろう。しばらくは水神の小祠に出くわしたり民家の敷地に迷い込んだりして苦労したものの、自転車は小回りが利くから助かる。めげずにガンバッタのであった。
松川二丁目で川が二手に分かれていて、右の方の流れを辿ると目の前に堰堤が現れ、金城ダムである。堤高19メートルの治水用のこのダムは城壁が静かに横たわっている印象がある。ダム湖は上にももう一つ造られており、全長7キロしかないのにこんなふうに丁寧な治水策が施されるのだから安里川は相当に暴れ川だ。雨はもう止んでいた。近くの草叢には「ハブに注意」との写真入り注意書きが立っている。鳥の声があちこちに聞こえる。
ダムから上は側溝みたいな小川となった。水源とされる弁ヶ岳までさほど遠くないだろうが、もういい。ハンドルを右に切って広い道路に出てペダルを漕ぐうち分水嶺を越え、正午頃に首里城ゆかりの識名園の前に出た。識名園には水が湧いていた。ここらはもう国場川の水系に入るが、近くの首里城でさえ標高120メートル程度しかなかろうに、きれいな水が豊かに湧出し、小魚たちが気持ちよさそうに泳いでいる。覗き込んでみたら、水底に大きなダクマ(手長蝦)がゆっくりと蠢いていたので目を見張った。ダクマが多く棲息するのは淡水と潮水とが混じり合う汽水域であり、湧水地で目にしたのはまるで初めてだ。よくぞここまでがんばって溯って来たよなあ、と握手してやりたいくらいであった。