第264回 『昭和の子』の中の一節

前山 光則

 このホームページで連載されていた三原浩良氏の「昭和の子」が、このほど弦書房から一冊の本になった。心待ちにしていたので、いや、良かったなあ、と嬉しくなった。
 著者は昭和十一年に島根県松江市古志原で生まれているが、昭和二十年八月十五日のことは「普段どおりの真夏の一日」で、おぼろな記憶しか残っていないという。まだ十歳にならぬ少年には、敗戦はそのようなものだったようだ。同月二十四日には、松江では日本の無条件降伏を拒否し徹底抗戦を主張する青年五十一人が県庁を焼き討ちにし、新聞社を襲ったりする。「帝国最後のクーデター」と呼ばれるこの事件、当時現地の新聞記者だった石橋貞吉(後の文芸評論家・山本健吉)やその妻で俳人の石橋秀野などは目の辺りにこれに遭遇しているのだが、三原少年はそのような状況の中でまだあどけなかった……。
 つまり、自分史というものは、腰を据えて己れを見つめ直し、時代の流れの中に放り出して叙述するなら、一つの普遍的な物語になるのだなあ、と、この『昭和の子』は、改めてそのような思いにさせてくれる。やがて戦後が始まり、民主主義を身につけつつ成長していき、六十年安保を経験する。新聞記者となってからのあれやこれやの事件についての記述がとてもおもしろいが、水俣病との関わりはまた格別だ。記者としてよりも一人の支援者としてこの問題と向き合うのである。それからさらにこの著者の人間的スケールの大きさを感じてしまうのが、友人の出版社長が病を得てついに斃れた際に、当人から請われてその経営を引き継ぐ。これはなかなかできることではない。それから、なんだかんだがあった後、新たに出版社を立ち上げる……、こういう生涯を安易に「波瀾万丈」などという語で括ってしまっては失礼だろう。時代の大きな流れと一個人の生きざまとが絡み合い、融け合い、豊かな物語と化している。
 第九章の中で、わたしが「応答せよ! 戦後の長男たち」を毎日新聞西部版の学芸欄に書かせてもらった時のことが回想されている。あれは「戦後の長男世代」が次男や次女ら下の弟や妹を尻目にさっさと地元を去り、都会へ出ていった風潮に異議を申したのであった。長男の去った後、親の面倒は誰が見るのか。次男や次女が故郷に残るしかないケースが自身や他の同級生たちの間にも生じたため、「戦後の長男」たちにはどうも身勝手なところがありはしないか、との思いだった。生まれて初めて原稿依頼を受け、稿料をいただいたのがあの「応答せよ! 戦後の長男たち」であり、声をかけてくださったのが三原浩良氏であった。戦後の長男たちを「擬制の民主主義世代」と呼んで、青臭い批判を下したのであったが、このたび改めて自分のその一文を読み返してみて生意気さに冷や汗ダクダクであった。三原さん、済みませんでした!
 
 
 
ガクアジサイ

▲ガクアジサイ。毎日、よく雨が降る。そんな中、アジサイ類は活き活きしている