第三回 旧薩摩藩定宿

浦辺登

『南洲遺訓に殉じた人びと』3
 
 三條実美たち五卿が滞在した延寿王院は太宰府天満宮の参道突き当りにある。しかしながら、西鉄(西日本鉄道)太宰府駅の改札口を潜ると、左右に広がる土産物屋の喧騒と参詣人の流れに巻き込まれて見失ってしまうのが常。よほど、意識を持って歩かなければ見落としてしまう。
 そこで、この太宰府天満宮に遠来の客を案内するとき、参道入り口右手にある「松屋」という茶店を紹介する。参道からは目につきにくいが、少し茶店の奥に歩を進めると一枚の木製看板が目につく。そこには「旧薩摩藩定宿」とあり、左わきには清水寺貫主とある。客は「旧薩摩藩」「清水寺」の文字を目にして、浮かれ気分が一変する。

「いったい、太宰府天満宮と薩摩藩との間に、どんな関係があるのですか」
「清水寺とは、あの京都の清水寺ですか……」

 不可解な看板に質問が相次ぐ。
 そこで、この松屋に勤皇僧月照が匿われていたこと。ここから月照が薩摩に落ちていき、西郷隆盛に抱かれて薩摩錦江湾に入水したことなどを告げる。
 幕末の歴史を詳しく知らない方でも、西郷さんが勤皇僧月照と自殺しようとし、自身だけが助かった話は有名なだけに、驚きの声があがる。「西郷南洲翁隠家乃跡」碑(福岡市中央区舞鶴)に続いて、この「旧薩摩藩定宿」の看板には秘密めいた史実臭を感じるのか、息を飲みこんでいるのがわかる。
 安政五(一八五八)年十月、月照はこの松屋から薩摩へと向かうが、福岡藩士の平野國臣が同伴していた。そして、人目につかぬようにして逃避行を続け、ようやく薩摩に入国を果たすことができた。
 しかし、同年十一月十六日、西郷さんは月照を抱いて錦江湾へと飛び込んだのだった。この時、平野國臣も同じ船に乗っていて、優雅に横笛を奏でていたという。
 
 
 
EPSON MFP image

▲旧薩摩藩定宿(松屋)