前山 光則
前回の続きで、あらためて思うのだが、子規は「写生」を唱えた人なのに写生的俳句はさほど見られないのではないだろうか。よく知られている「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」「いくたびも雪の深さを尋ねけり」などもそうで、「写生」というよりむしろ作者の気持ちが反映された句である。子規の作品では、むしろ短歌の方に「写生」の成果があろう。
瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書(ふみ)の上に垂れたり
瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす
明治34年作である。とりわけ一首目は秀逸で、若い頃にはただ単に藤の花房が短いので畳の上に届かなかった、でもそれが何だというのかなあと、うまく受け止めることができなかった。しかし、考えてみれば、これは藤の花房の状態を写生するのと同時に作者自らの現況を暗示してもいるのである。今ではそう理解し、たいへん味わい深い歌だと思う。
俳句の方で写生精神がよく出ているものとしては、いつも次の句が頭に浮かぶ。
鶏頭の十四五本もありぬべし
明治33年に詠まれている。俳人は、病床から庭を見ていて、鶏頭を目にしたのであったろう。それは雑然と生えていたが、またそれだけに目に色鮮やかに映ったので、本数までもが意識された。さりげない言い方であるものの、「十四五本もありぬべし」とはそういうことだろう。「写生」であり、鶏頭群に対する作者の注目度がよく出ている句なのだ、とわたしは思う。
しかし、これが、現在手元に置いている文庫本『子規句集』には入っていないのである。どうしてなのか不思議だったが、山本健吉の『新版現代俳句』を見てみたところ、これは当時の俳人たちからは「簡単に見過ごされ」ていたし、「おそらく作者の子規にすらこの句が秀句であるという意識はなかった」とあるではないか。まことに意外な事実であった。この句は、はじめ、門弟の虚子や碧梧桐などによって子規句集が編纂された時にも外された。そして虚子はずっと後に岩波文庫でも『子規句集』を編んだが、やはり「鶏頭の……」の句は収めなかったのである。そのことを、山本健吉は「おそるべき頑迷な拒否である」と述べている。わたしは、今、他ならぬその文庫本を愛読しているわけである。この句を積極的に評価したのは俳壇よりも短歌畑の人たちで、まず最初に長塚節が「この句がわかる俳人は今はいない」などと斎藤茂吉に語ったのだという。それを継承して、茂吉は、『童馬漫語』という著書の中で積極的に誉め上げ、これによって「鶏頭の……」の句は世に広まった、と山本健吉は解説している。
一句の中身をめぐって、こんなにも極端に評価が割れるケースというのは、ちょっと珍しいのではなかろうか。