浦辺登
『南洲遺訓に殉じた人びと』6
延寿王院だが、ここの中庭には「五卿遺跡」と大書された石碑が立っている。ここでいう五卿とは、三條実美(さんじょう・さねとみ)、三條西季知(さんじょうにし・すえとも)、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)、四條隆謌(しじょう・たかうた)、壬生基修(みぶ・もとなが)になるが、いかにも、お公家さんという名前ばかり。
この五卿たちは、慶応元(一八六五)年二月十三日に延寿王院に入った。歴史年表では、五卿だけが太宰府にやってきたという印象を抱くが、実際は多くの警護役などを従えている。五卿の従者、脱藩浪士が四十一名、馬取小者二十五名、合せて六十六名だった。中には、土佐脱藩浪士の土方楠左衛門久元(土方久元)、大山彦太郎道正こと中岡慎太郎もいた。他にも久留米藩関係として鏡五郎こと真木外記も含まれていた。真木はあの久留米水天宮宮司であった真木和泉保臣の弟になる。
ちなみに、延寿王院には水戸脱藩浪士の斎藤左次右衛門こと藤岡彦次郎もいた。『幕末の魁、維新の殿』(小野寺龍太 著)にその名前を見つけた時には、思わず興奮した。
さらに、この五卿を警備する福岡、鹿児島、熊本、佐賀、久留米の各藩から派遣された武士や守衛士など百五十三人がいる。人足に至っては正確な員数はわかっていないだけに、ちょっとした集落が一夜にして誕生したかのようなものだった。
このため、太宰府周辺の需要と供給のバランスが崩れ、食材不足から諸物価が値上がりするというオマケがついてきた。さすがに話し合いの末に価格調整が図られたが、五卿の移転がどれほどの賑わいぶりだったが想像できる。
昨今、三千人乗りのクルーズ船が博多港に寄港し、太宰府天満宮に観光バスが連なり大渋滞を引き起こす。参道は外国人観光客で埋め尽くされ、歩くのもままならない。五卿が延寿王院に移ってきた折も似たような現象が起きたのではないだろうか。
しかし、日本人観光客も外国人観光客も、なぜか、この延寿王院には興味を示さない。右手には、菅原道真が詠んだ「東風ふかば・・・」の歌を刻んだ歌碑までがあるが、素通りしてしまう。どころか、外国人観光客は、なぜか延寿王院前の牛の置物と一緒に写真に写りたがる。