第465回 兄のこと

前山光則 

 早いもので今年も暮れてしまおうとしているから、この1年を振り返ってみるのだが、自分自身について特記すべきようなことはなかった。ただ、触れなくてはならぬことが一つある。
 それは、4歳上の兄が亡くなったこと。4月3日だった由、報せを受けたのは4月8日であった。兄は、神奈川県座間市に妻の昭子さんと二人で暮らしていた。そして、昭子さんが数年前に亡くなって以後、一人暮らしをしていたのだが、3月の下旬に「しばらく入院するよ」と電話してきた。こちらとしては、「そうね。お大事に」と軽い気持ちであったのだった。兄が言うには、「脊椎間狭窄症」とのことであった。
 兄は4月3日に亡くなり、8日、火葬されたのだという。なぜそのようにこちらへの報せが遅れてしまったのか。今から思うのだが、どうも兄はわたしたちに負担がかからぬよう周到に手配を済ませた上で病院へ赴いたのではないだろうか。そうとしか考えられない。
 ともあれ、急遽、娘と一緒に座間へ出かけたのだが、言うまでもなく兄は骨箱に納まっていた。享年81であった。
 兄は、脊椎間狭窄症だけでなく他にも病気を抱えていたのではないだろうか。今、そのように想像している。事実、昨年の11月頃にもしばらく入院生活を送ったようだから、すでにだいぶん前から体のあちこちが弱っていたのかと思われる。
 それにしても、兄は神奈川県座間市、わたしは熊本県八代市、互いに離れて暮らしていたから、もう何年も会っていなかった。電話をすることも、たまにしかなかった。父や母が他界した後、8年前には姉が亡くなっている。3人姉弟だったわけだから、今となってはもうわたし一人になってしまった。
 だから、今、さみしくてならぬ。
 子どもの頃、兄はボンクラのわたしと違って頭が良くて、体が頑丈で、目立っていた。顔つきが精悍で、いかにも強そうで、あだ名は「ブス勝」だった。これは、球磨・人吉の方言で厳(いか)つい悪相を「ブスクレ」と呼ぶことに由来している。つまり、兄は、いつも厳つい表情つまり強面(こわおもて)だったのだ。そして、実際、図抜けて強かった。中学2年生で柔道の初段試験に合格し、少なくとも球磨・人吉地域の中学生の中ではダントツであった。柔道大会での兄の闘いぶりを何度か見たことがあるが、相手と組み合った後、10秒以内には内股や払い腰をかけて投げとばしていた。高校生や大人たちに混じっても、まったく引けをとらなかった。
 相撲もダントツだった。中体連の球磨・人吉地区大会では、相撲部には属していなかったものの、「メンバーに入ってくれ」との要請を受けて出場し、これまた個人戦であっさり優勝した。それで、当時の人吉には若い頃に高砂部屋に所属し、高手山(たかてやま)という四股名(しこな)で十両にまで昇進した経歴を持つ人がいた。相撲道場を開いて子どもたちに指導をしていたから、わたしなどもその道場に通っていたのだが、その高手山さんが兄に「ぜひ高砂部屋に入りなさい。わしが紹介するから」と勧めたことがある。だが、兄は、「うんにゃ、俺は、フンドシ(褌)担ぎにはならんです」ときっぱり断った。
 人吉でのそのような評判を聞きつけて、熊本市内のある私立高校から誘いがあった。そこは今でも柔道の名門だが、あの頃は九州でただ一人9段位を持った指導者・宇土虎雄氏がいた。その高校から「ぜひ来なさい」との勧誘があって、つまりは特待生として推薦入学できるというわけであった。これには本人も張り切って応じた。ただ、事は順調にいかなかった。せっかくスムーズに推薦入学が決まったのだが、入学直前の春休みの合宿に招(よ)ばれて行ってみたところ、学校の寄宿舎内での柔道部員たちの私生活の奔放さというか、乱脈ぶりというか、すっかり幻滅してしまったのだそうだ。
 兄は、合宿所から早々に帰って来た。そして、わが家に入るとすぐに、
「俺は、やっぱり、県立高校に行く」
 と言い出した。しかし、その時には県立学校の入学試験はすでに終わってしまっており、遅かったのだった。だから、1年間浪人をした。昼間は人吉市内の清水食料品店という店でアルバイト、夜は家で勉強を続けたのである。そして、翌年、地元の人吉高校を受けて合格し、入学した。
 あの時は、熊本市内や八代市方面の国立電波高専とか私立高校に行ってみたけど馴染みきれずに帰って来た人が3、4人おり、兄たちは1年下の人たちと一緒に人吉での高校生活をすることとなったのであった。
 以後、「ブス勝」こと前山勝則は、きっぱりと柔道から足を洗ってしまった。スポーツは何もせず、普通の高校生として学校に通った。そして、中学生になったばかりの弟に対して、英語を盛んに教えてくれた。
「なあ、ミツノッ、良かや、中学では、小学校ではまだ習わなかったことを勉強せんばんとゾ。それは英語だ。これをちゃんと勉強せんば、いかんとゾ」 
 と、英語をつきっきりで教えてくれた。猛特訓であった。だから、わたしは英語だけはいつも100パーセントかそれに近い点数を取ることができた。それで、小学校の時はクラスの中でいつも真ん中ぐらいの成績だったのだが、中学生になってからは英語で高得点を取っただけでも違ってきた。他の教科も少しは勉強するようになり、結果、クラスでトップに迫るほどの成績になったのだった。そう、それまではただのボンクラ生徒だったのが、アッという間に秀才レベルにのし上がったわけだ。あの頃鍛えられていなかったら、ほんと、自分は中学校や高校の授業についてゆけなかっただろうな、と、今でも兄の猛特訓には感謝している。
 高校時代の兄は、新聞部から頼まれて風刺漫画というか、社会戯評漫画を描いていた。これは生徒たちだけでなく教師の側からも評判が良かった。兄が卒業した後、入れ替わりにわたしが人吉高校に入学したわけであるが、わたしなどにも、新聞部の顧問教師から、
「君が風刺漫画の勝則君の弟だな。そうか、君もぜひ社会戯評を描きなさい」
 と勧められたので、慌てて辞退した。
 兄は人吉高校を優秀な成績で卒業し、大学に進んだ。その際、我が家は経済的に苦しかったので、中央大学法学部の「二部」すなわち夜間部を受けた。幸いなことに朝日新聞社広告部に学生アルバイトの口があったから、そこで昼間は働かせてもらい、夕方から大学へ通う、という勤労学生の生活をすることとなったのであった。
 兄は、当初、大学の法学部で学んだ後はそうした方面での勉強成果を生かす道へと進みたかったはずだ。だが、朝日新聞東京本社の地下には広告部の分室があって、そこにはフランスの詩人ポール・ヴァレリーを愛読する人やら画家を志す人やらがアルバイト生として働いており、そこでの交わりを通して彼等から影響を受けた。そして、なんと、兄は、
「ミツノッ、俺は、そのうちプロの写真家となって飯を食うて行くからな」
 と言い出した。そして、アンリ・カルティエ・ブレッソンとかロバート・キャパ、ユージン・スミス、日本人では浜谷浩(はまや・ひろし)といった著名な写真家のことを盛んに話題にしはじめたのだった。今から思うと、それはどうも国際写真家集団マグナムに名を連ねる人たちだったのではないだろうか。兄は、そういう人たちに憧れたのだ。ただ、「写真家」として飯を食えるようになるには、生半可なことではできない。困っていたところ、東京大学の中に宇宙航空研究所という研究施設があり、そこが写真撮影係を募集している、との情報が入った。そこで、応募し、採用され、勤めることとなった。
 しかし、宇宙航空研究所での仕事は「写真家」としてではなかった。あくまでも、ロケット研究の過程を記録する「写真班」の一員であった。だから、かねては研究所の中で実験等を写真で記録する。そして、鹿児島県肝付町の内之浦(うちのうら)にあった宇宙空間観測所で打ち上げ実験が行われる際には、いつも写真記録班の一員として仕事をしに行くこととなった。すなわち、写真家としての力量などよりも、研究の過程や成果を正確に撮影・記録する、というのが仕事であった。いわば、「技師」だった。
 その仕事に従事するうちに、いつしか兄のプロ写真家志望の夢は薄れて行った。そして、ロケット研究の記録写真を担当する技師として定年までそこに実直に勤めることとなったのだった。
 勤め始めて、やがて、同じ勤務先で七歳上の女性と結婚した。仲の良い夫婦だったが、子宝に恵まれなかった。そして、二人は互いに定年まで働き、以後も仲良く暮らした。しかし、やがて奥さんが他界し、以後、兄は一人暮らしを続けたわけであった。
 二度ほど作品展をしたことがある。最初は、わたしがJR八代駅前の喫茶店「ミック」にお願いして「前山勝則写真展」をさせてもらった。結構な数の作品を展示したが、山江村に住む従兄の笑い顔を大写しに撮った1枚は、いかにも田舎くさい顔、前歯が欠けた状態で笑顔をさらしている、といった写真だった。これがたいへん好評だった。他の作品は、格好良く撮ろうとする姿勢が見え見えで、さほど優れた出来とは思えなかった。
 そして、あと一度は、東京で、どこかの貸し画廊での展示だったそうだが、わたしはそっちの方は観に行かなかったので、どういう按配だったか分からない。兄の「写真家」としての経歴は、その程度で終わってしまった。
 こうやってあれやこれや振り返っていると、今、兄がこの世にいない、という事実が迫ってきて、どうしようもない。
 今年は、そのように、大切な存在がこの世からいなくなってしまった。今は兄の冥福を祈るしかない。
兄とつきあいのあった方々、兄が色々お世話になりました。心から御礼を申し上げます。