第466回 蜆汁の話

前山光則 

 なんだか、年末年始慌ただしく過ぎてしまったなあ、と、今日は溜息をついている。わたしのこの「本のある生活」を読んでくださる方々、本年もどうぞよろしくお願いいたします。 
 さて、昨年暮れのことであるが、行きつけの喫茶店で知り合いの人たちとダベっていたら、蜆(しじみ)のことが話題になった。
「……そう言えば、浅蜊(あさり)の味噌汁も良かばってん、俺は蜆も好いとるたい」
「そうね、鏡町の小川には蜆がまだ居るごたるばい」
「そぎゃんな。獲りに行きたかな」
「ばってん、わざわざ車で出かけるのも億劫だ。今、寒かしねえ」
「昔は近くの球磨川にも蜆がおったが」
「今は、あれは島根県かな、宍道湖(しんじこ)。あそこの蜆が、この辺のマーケットにも売ってあるぞ」
「しかし、あぎゃん遠かところにしか蜆は居らんのかねえ」
「商売にできるほど獲れるかどうか、だろうからなあ」
 などと、他愛ない茶飲み話であった。
 御飯を食べるときには、味噌汁が欲しくなる。それも、浅蜊や蜆を使ったら、おいしいだけでなくて、なんだか愉しい。だから、時たま生協を通じて取り寄せるし、近所の店で買うことも多い。とりわけ、会話に出てきた蜆は、NHK朝の連続ドラマ「ばけばけ」に登場する宍道湖産のものだ。宍道湖は斐伊川(ひいがわ)の淡水と日本海の海水とが混じり合う湖であり、確か「汽水湖」とかいうものなのだそうだ。蜆の名産地として知られており、実際よほど獲れるから九州の八代でも目にすることができるのであろう。それで、時々買い求めており、貝類をつかった汁物はおいしいな、と、いつも思う。
 浅蜊にしても蜆にしても、味噌汁にすれば貝の身からダシが出てきて、実に良い味が生まれる。野菜類と煮干しで作る味噌汁に比べたら、うまいと思う。しかも、身の方も食べたいので、いちいち貝から剥がして行く。面倒な作業だが、しかしその手順が苦痛でないのだから、やはり貝の味噌汁は愉しい。
 蜆には小さい頃からなじんでいる。わが家のすぐ裏が球磨川の支流の山田川だったが、本流に比べて小さな流れであったものの、浅瀬を掘るとわずかながら蜆が獲れたのである。掘り上げた蜆を家に持ち帰り、味噌汁にしてもらうのが楽しみだった。いつも、祖母がやってくれていた。
 昭和50年(1975)春から4年間、球磨川の上流部の水上村に住んだことがあるが、あそこには市房ダムがある。そして、その下に灌漑用水用の小さな市房第二ダムが作られており、そこが、ある時、水を全部抜いた。その時はいっぱい蜆が現れて、村の人たちがこぞって獲りまくったのだそうだ。運悪くその時わたしは出張でよそへ出かけていたために、恩恵に与(あずか)れなかった。あれは、今思い返してもまことに残念なことであった。
 八代に来てからは、球磨川の河口近く、麦島という三角州の中に住んでいるので、ひところ暇を見つけては川に入り込んで蜆掘りを愉しんだものである。引き潮時に行くと、浅瀬や水際で獲れたのだ。良く獲れるものだから、人が結構来ていた。この頃はあまり人の姿が見えないし、わたしも年をとって川へ入る元気が出なくなった。さて、まだ蜆はいるだろうか。
蜆は体に良いのだそうだ。疲労回復、風邪予防。動脈硬化も防いでくれるし、骨を丈夫にするカルシウムも多い由である。味わいは、蜆よりも浅蜊の方が派手だ。なんといっても、おいしい。しかし、蜆の地味な味わいも悪くないな、と、いつも思う。
 ちょっと気になったから、インターネットで宍道湖の蜆漁について調べてみたら、あそこは漁獲する蜆貝の大きさは貝殻の横幅が最低10ミリ、つまり1センチ以上でなくてはいけないのだそうだ。それよりも小さいのは獲ってはならぬ、とのこと。なるほど、確かに貝を掘って食用に使う場合、あんまり小型のを獲ったら蜆はいなくなってしまうだろうから、乱獲は厳に慎むべきだ。気になるので、生協から取り寄せたばかりの蜆を物差しで測ってみたら、おお、1センチどころか2センチを越す貝ばかりだった。あの汽水湖ではこのような蜆がいつも採れている、遠い九州の八代にまで送られてくる、そのようにも蜆が多い豊かな湖なのであり、ほんとに羨ましいことだ。
 そう言えば、今ふと思い出したが、名作「桜島」「幻化」等を書いた梅崎春生に「蜆」という題の短編があった。あの中で、主人公の「俺」が、真夜中、布団に潜っていると、

  プチプチという幽(かす)かな音が聞えるのだ。何かを舐(な)めるような音だ、執拗に耳について離れない。布団から顔を出して俺は怒鳴った。
 ――何を舐めてんだ。
 ――何も舐めてなんかいないわよ。
  女房の声が答えた。音は止まない。俺はついにむっくり床の上に起き直った。     ――あの音は何だ。
  女房も針を休めて、俺と一緒に耳を澄ました。音は床の間の方らしい。注意深く音を 探りながら、俺は身体をそちらにずらした。
  蜆(しじみ)が鳴いていたのだ。
  蜆が鳴くことをお前は知っているか。俺は知らなかった。俺は驚いた。リュックの中で何千という蜆が押合いへし合いしながら、そして幽かにプチプチと啼(な)いていた のだよ。耳をリュックに近づけ、俺はその啼声にじっと聞入っていた。それは淋しい声だった。気も滅入るような陰気な音だった。肩が冷えて来て慄えが始まったけれども、俺は耳を離さなかった。そして考えていたのだ。俺が何時も今まで自分に言い聞かしていたことは何だろう。善いことを念願せよ。惜しみなく人に与えよ。俺は本気でそれを信じて来たのか。

 この梅崎春生の作品はとても印象的、というか不気味な感じで読んだ記憶がある。
 浅蜊が「鳴く」のは、聞いたことがある。というか、店から買って来たら体内の砂を吐かせるために一晩置くわけだが、そうすると浅蜊は盛んにチャッ、チャッと汐を吐くのである。なんだか、愉しくなる。だが、蜆の「鳴く」のは、どうだろう、今まで聞いたことがないような気がする。というよりも、浅蜊と比べて蜆はあまり砂を呑んでいないので、砂抜きすべく一晩置くなどという手間をかけなくて済む。いつも、店から買って来たらすぐに一煮立ちさせて、後は味噌を加えるだけ。そのようなわたしのやり方からすれば、いやあ、梅崎春生の小説の夫婦はまことにマメなことをしていると言える。
 いつか、自分でも蜆を一晩水槽の中に過ごさせてみようか。そしてプチプチという蜆の声を聞いてみたいものだ、と、今、まことに他愛ないことを考えている。ただ、どうであろう。梅崎春生が書いたような「気も滅入るような陰気な音」なのならば、ううむ、ちょっとイヤだなあ。

2026・1・6