前山 光則
弦書房の創立者である三原浩良(ひろよし)氏が、1月20日、亡くなられた。昨年の10月下旬に何人かで島根県松江市までお見舞いに行ったので、闘病生活の大変さは承知していた。だからある程度予測できていたものの、訃報に接してやはり愕然とした。享年79歳、もっと長生きしてほしかった。
三原氏については、氏の著書『昭和の子』が刊行された直後にこの連載コラム「本のある生活」第264回で触れたことがある。その折り論評したようにあれはほんとに好著で、島根県松江市古志原に生まれた著者が戦時に自己形成し、日本の敗戦を経験し、やがて東京へ出て大学を卒業してからは毎日新聞の記者となる。社会部や文化部で目一杯ジャーナリストとして仕事をしてからの退職後は葦書房の社長となる。ついで、弦書房を創立し、経営状態が一段落してからは後進に後を託して郷里の松江市に戻る、云々と行った自分史が語られているのだが、それがまた松江における敗戦直後の様子や六十年安保、新聞記者となってからの社会的諸事件と不可分に展開する。とりわけ水俣病への関わりようは、一ジャーナリストとしてよりも「支援者」である。読んでいて、一個人の歩みが戦後日本のドラマチックな動きとダブってくるのである。氏には『熊本の教育』『地方記者』『噴火と闘った島原鉄道』『古志原から松江へ』といった著書が他にもあるが、『昭和の子』が最も結晶度が高いと思う。そして結果的にはこれが生涯で最後の著作となった。
個人的には、これもコラムで触れたことがあるとおり、昭和50年に三原氏から原稿依頼を受けて毎日新聞西部版に「応答せよ!戦後の長男たち――帰郷した悲哀の次男坊より」と題したエッセイを発表した。生まれて初めてのジャーナリズムへの執筆であったが、送られてきた原稿料が自分の予想よりも数倍高くてビックリした記憶がある。
わりとよくお会いするようになったのは、そうした若い頃でなく、三原氏が弦書房を立ち上げてからである。島尾ミホさんと石牟礼道子さんによる『対談 ヤポネシアの海辺から』が刊行される時には解説を任された。一所懸命書いて原稿を送ったら、三原氏から返事が来て「さすが……」と褒められて、なんだか初めて新聞に書かせてもらった時よりも嬉しかった。最近では特に忘年会などでご一緒することが増えて来て、楽しかった。三原氏は親分肌というか、若い者への面倒見が良くて、頼もしかった。酒が強く、また、タフだった。一次会は言うまでもなく二次会、三次会と時が過ぎても疲れを知らず、夜中の午前1時、2時でも平気。福岡市の中州界隈をはしごしながら、活き活きしていた。カラオケも上手で、かなわんなあ、とため息が出るほどであった。
そのタフな三原氏が、もうこの世にいない。三原さん、いろいろお世話になりました。そのうちあの世でまたお会いしましょうね。