前山 光則
7月8日、快晴。「島尾敏雄生誕100年記念祭」の2日目であり、この日は加計呂麻島散策ツアーが行われた。
午前8時20分頃に集合場所の奄美市役所玄関前へ行ってみると、すでに大勢の人たちが来ていた。30分後、参加者を乗せたバスが出発。わたしは申し込みが遅れた関係でそれには入れず、スタッフの人の車に乗せてもらった。約1時間で瀬戸内町の古仁屋に到着し、瀬戸内町立図書館の島尾敏雄文学コーナーを見学した後、港へと移動すると、海上タクシーが次から次に参加者を対岸の加計呂麻島へ連れて行ってくれた。「タクシー」というが、要するに漁船程度の船が人を運んでくれるのである。乗っている間ずっと舳先に陣取って前方を眺めていた。海風がまともに当たって来て、実に涼しい、気持ちいい。ウットリするうち対岸が近づいて来る。
海上タクシーは14、5分で加計呂麻島の押角(おしかく)集落へと着いた。船着き場の近くに、ミホさんの実家・大平(おおひら)家跡がある。そこは今はもうほとんど藪と化しているのだが、広い敷地だったそうだ。瀬戸内町在住の人による説明だけでなく島尾氏の長男で写真家の島尾伸三氏も来ていて、大平家当主の文一郎氏が地元の産業振興に多大に貢献していた話を詳しく聞くことができた。そのあと午前11時半頃、参加者約130名は浜へ下りて、からりと晴れた空の下、岬を経て第十八震洋隊の基地があった呑之浦(のみのうら)までの約3キロほどの浜辺を歩いたのである。チャーターされていた船で運んでもらう人たちもいた。浜辺は、はじめわりと踏み心地良い砂地だったが、やがて石ころが増え、岩場が現れ、「磯」の様相を呈してきてたいへん歩きづらい。「ここらはフナムシが多いですね」とか「奄美に来ると、大空がほんとに近く見えますね。素晴らしい!」などと余裕の会話ができる人たちもいたが、わたしなんか汗ダクダク、へばりそうであった。もっとも、磯伝いに茂るアダンの木にはパイナップルのような実が生っていて色づいており、思わず見とれてしまった。
なぜまたこんな足場の悪い難所へ連れて行かれたかと言うと、映画「海辺の生と死」でも出てきたのだが、そこが若き島尾隊長とミホさんが夜間に人目を忍んで逢瀬を重ねていた一帯だからである。島尾敏雄氏の「はまべのうた」「出発は遂に訪れず」等に、そのことは幾度か書かれている。だが、隊長よりも押角に住んでいたミホさんの方が切羽詰まっていた様子が窺える。
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しかし今私は夜更けてたった一人、禁制の島尾部隊へ続く浜辺を、しかも監視員たちのいる真下を歩いているのです。ああ、どうしたらいいのでしょう! 私は退きも進みもならず、渚のアダンの木の下にうずくまってしまいました。悲しみがどっと溢れてきて、父と母を心の中で呼びながらたすけを求めて泣きました。
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ミホさんのエッセイ「その夜」の一節である。明るい昼間でなく夜の暗い中での行動だから、さぞかし難儀だったろう。しかも、これは島尾部隊が突撃へ向けて待機している夜のことなのであり、必死な様が目に見えるようだ。浜辺を歩く途中、二人の逢っていた塩焼き小屋のあった場所も通過したが、無論、小屋の跡形はない。
そのようにして浜辺を、転げないよう用心しいしい辿りながら、――島尾氏の姿を初めて見たのは昭和46年の夏に名瀬の図書館に行った時だった。しかし、直かに面と向かって会話を交わしたのはその翌年の早春、東京でのことだったなあ、と思い出していた。わたしは大學卒業間近かだった。その頃、旺文社でアルバイトをしており、中学生向けの参考書や文庫本編集の手伝いをしていた。文庫の編集者に片倉俊太郎という人がいて、島尾敏雄で一冊出せば意義があるのではないでしょうかと提案したら、大いに乗り気で会社に企画を提出してくれた。後は作者の了承をとらねばならぬのだが、ちょうどその頃島尾氏が旺文社の近くに奄美から出て来て滞在しているとの情報が入った。それで、朝、まだ7時になったばかりだったろう。片倉氏と共に新宿区矢来町の宿に押しかけて、面会したのである。片倉氏は、『出発は遂に訪れず』を中心に旺文社文庫で一冊作らせてください、と熱心にお願いした。わたしも思いを口に出した。その宿というのが、実は旺文社のすぐ近くなのだが、新潮社の執筆者専用の宿舎であった。島尾氏は、原稿執筆のため奄美から出て来て泊まっていたのである。『死の棘』の中の「引っ越し」が書かれていた時期だったと思う。ともあれ早朝の、なんとも強引な訪問のしかただったにもかかわらず、氏は浴衣を着たままで蒲団の上に坐って会ってくれた。幸い、文庫の件は快諾を得ることができた。あの時は、嬉しかった。旺文社文庫版『出発は遂に訪れず』は約1年後に発売され、よく売れて、版を重ねた。島尾氏には、以後もわたしの最初の本『この指に止まれ』の帯文を書いてくださったり、わたしが熊本で出ていた雑誌「暗河」の編集を担当していた時期には、石牟礼道子さん・松浦豊敏氏を相手に座談をしてもらったりしたのであった。
思い出しながら、ほんとになにかとお世話になったなあ、と、溜息が出た。
途中で休憩したり、足もとが不安定で転げそうになったりしながら、呑之浦を目指した。1時間20分ほどかけて浜辺を歩き、岬の鼻に当たるところを過ぎると、行く手に深く入り込んだ湾が見えてきた。そこが、呑之浦である。ようやく湾の奥の基地跡へ辿り着いたとき、もう、足がガタガタだった。ここらは、いわば、強者(つわもの)どもの夢の跡。特攻用の震洋艇が格納されていた幾つかの壕が、浜辺のそばの山壁にまだ残っている。その中の1つには、映画「死の棘」ロケの際に撮影用に作られた実物大の模型が置かれている。長さ5.1メートル、高さ0.8メートル、幅1.7メートルで、さほど大きくないボートだ。しかも、ベニヤ製。これは本物もそうだったというから、哀しい。その壕や島尾敏雄文学碑を見て回り、島尾敏雄・ミホ・マヤの墓碑では手を合わせた。歩く途中で何人もの人と仲良くなったので、一緒に記念撮影もした。アダンの実を採取してきた人がいて、食わせてくれた。なんだかほの甘い感じだった。疲れはてて、スタッフの方たちが広げてくれたビニールシートにぐったり横たわる男性もいた。そして、昼御飯であった。用意された弁当を受け取って、開きながら、考えた。島尾敏雄氏は敵艦に突撃して散ることを任務とし、日々を過ごした。立派に死ぬこと以外は考えてならなかったわけだ。昭和20年8月13日からは、出撃のためにここで即時待機したのである。ミホさんはミホさんで、必死の思いで夜の浜辺を辿り、島尾隊長の出撃の後には短剣で喉を突いて自決するつもりだった。そこへ、8月15日になって不意に敗戦……、両人の当時の心の内を想像していると、胸が詰まってしかたがなかった。
一方で、足場の悪い3キロを踏破したなあ、歩いてみて良かったゾ、という晴れやかな達成感があった。島尾敏雄氏の「加計呂麻島呑之浦」の一節を開いてみた。
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しかし今度の訪れでそれまでとは何か様子の変わっていることに私は気づいた。或るいは二日もつづけざまに訪れたせいかもしれないが、私の心の中から、呑之浦が廃址である思いが消え去ってしまった。入江岸などその半分ほどが自動車の通れる道路が整備されたために、山肌も削られてすっかり様子が変わってしまったにもかかわらず、私には呑之浦が昨日の今日のようにしか感じられなかった。部隊の本部跡も草ぼうぼう、隧道の入口前も灌木がさらに繁茂を加え、廃墟の思いの深まりそうな状況はむしろ深まっていたのに、私には歳月の経過が感じられなくなっていたのだ。
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昭和50年4月、「アサヒグラフ」に発表された文章だ。戦後30年経っての文章ということになる。島尾氏にとってここはいつまでも過去のものとならず、生々しく当時のことが甦っていたのであったろう。読みながら、実地に磯を辿ってみて少しでも臨場感が味わえたゾ、との満足感がこみあげてきた。それは、わたしだけだったろうか。いやいや、そうでない。弁当をつつきながら、参加者たちの間に、なんというか、和やかな雰囲気が生じており、多分お互い似たような気持ちであったのだ。