第331回 石牟礼道子の短歌時代

前山 光則

 前々回・前回と続けて与謝野晶子、若山牧水の短歌について触れたが、そんなことをやっているうちに今年の2月に90歳で亡くなった石牟礼道子さんのことが浮かんできた。
 晶子も牧水も、若いうちに青春をめいっぱい謳歌する作品を詠んで世の注目を集めた。今でも何かにつけて彼らの秀歌は話題になる。しかしながら、読者が年齢を重ねた後に読み直してみると、「やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子)にしても「けふもまたこころの鉦をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く」(若山牧水)にしても、「若い者は恥ずかしげもなく歌い上げるもんだなあ」とついつい言いたくなってしまう。だが、石牟礼さんの場合、だいぶん違うと言わざるを得ない。
 
 
 ひとりごと数なき紙にいひあまりまたとぢるらむ白き手帖を
 
 
『歌集 海と空のあいだに』(平成元年、葦書房・刊)の巻頭を飾る作品だ。「友が憶えゐてくれし十七のころの歌」との詞書がついており、してみれば石牟礼さんは昭和2年(1927)3月の生まれだから、これは昭和19年(1944)か20年頃の詠であろう。短歌作品としてすでに修辞がしっかりしており、この人は最初から高いレベルに達していたと言える。それにしても、独り言を「数なき紙」に書きつけて、まだ言い足りない想いがある、というのは、なんだかもどかしい気持ちを引きずりながら手帳を閉じるのであろうか。若い時分ならではの堂々巡りの煩悶が想像される歌で、いわばこれがこの人の「青春」像であろうか、などと推測しつつ読み進めると、この時分から21年にかけてまだまだ穏やかでない作品が現れてくる。
 
 
 この秋にいよよ死ぬべしと思ふとき十九の命いとしくてならぬ
 死ぬことを思ひ立ちしより三とせ経ぬ丸い顔してよく笑ひしよ
 おどおどと物いはぬ人達が目を離さぬ自殺未遂のわたしを囲んで
 まなぶたに昼の風吹き不知火の海とほくきて生きてをりたり
 
 
 考えられるのは、先の「ひとりごと」はどうも自殺願望と不可分の関係にあったようなのである。実際、自殺を試みて未遂に終わり、そのような自身を省みた歌が連作のようにして詠まれているわけである。与謝野晶子や若山牧水の浪漫的青春詠と比べて、なんという息苦しさであるか。
 その後、石牟礼さんは昭和22年(1947)2月に石牟礼弘氏と結婚し、翌年10月には長男・道生が生まれる。家庭に人り、母親となったわけだ。その時期の作品には次のようなものがある。
 
 
 白き髪結はへてやれば祖母(おほはは)の狂ひやさしくなりて笑みます
 うつむけば涙たちまちあふれきぬ夜中の橋の潮満つる音
 かたはらにやはらかきやはらかきものありて視れば小さき息をつきゐる
 リンリンとキャンデー売りが走つてく来年の秋かつてあげるよ
 玉葱の皮なんぞむき泣いてゐたそのまに失つた言葉のいくつ
 
 
 3首目・4首目は「吾は母となれり 道生と命名したり」との詞書がついて、自分の子への深い愛情が表現されている。なかなか可愛らしい、魅力ある母親ぶりである。ただ、5首目には日常生活の中にあって懸命に日々を過ごしながら、しかしながらその間に自分は大切なものを失ってしまっているのではないか、との痛切な思いが表明されているのである。こういう思念・感性は意図して湧くのでなく、この人の持って生まれた不幸な魂というか、感受性の過剰な豊かさがこのような歌を生んでいる。
 石牟礼さんは『歌集 海と空のあいだに』の巻末にあとがき代わりの一文「あらあら覚え」を書いているが、文中、こう述べている。
 
 
 表現の方法もわからないまま、それなりに七五調にたどりつこうとしているのは、日常語で表現するには、日々の実質があまりに生々しかったからではないか。日記を書かず、歌の形にしていたのは、ただただ日常を脱却したいばかりだったと思われる。
 
 
 ここには石川啄木と通じる想いがあるのではなかろうか。まことに短歌にしろ俳句でもそうであろう、定型の、しかも文語使用を旨とする短文芸はしばし人間を現実から一歩退かせて、「日常を脱却」させてくれるような功徳を有している。かつて明治時代に若き石川啄木が自らの歌の世界を「悲しき玩具」と称したことがあるが、あれに通ずることではなかろうか。
 いや、それはともかく、もっと注目しなくてはならないのは実は1首目であった。「白き髪結はへてやれば祖母の狂ひやさしくなりて笑みます」、これは石牟礼さんの作品に何度も登場する祖母・おもか様である。石牟礼さんは幼女の頃からこの祖母になじんで育ち、祖母の気の狂いをわがことのようにして引き受け、見続けてきたものと思われる。幼女は祖母を気遣い、祖母の精神的なさ迷いをわがことのようにして感受する。水俣の方言で他人様の不幸をわがことのようにして感じ取り、引き受けて身悶えする者がいる、それを「悶え神」と呼び習わす習慣がある。作家・石牟礼道子は、この「悶え神」であろう。
 
 
 狂へばかの祖母の如くに縁先よりけり落さるるならむかわれも
 ばばさまと呼べばけげんの面ざしを寄せ来たまへり雪の中より
 うつくしく狂ふなどなし蓬髪に虱わかせて祖母は死にたり
 
 
 昭和28年(1953)の秋から翌年2月にかけて詠まれた歌、これも祖母おもか様のことである。1首目「狂へばかの祖母の如くに……」について、石牟礼さんは『潮の日録 石牟礼道子初期散文』の「あとがき」の冒頭で「これは私の二十代はじめごろの一連の作品で、この一連をちいさな短歌同人誌に出したとき、同人達はなんだかぎょっとして、批評の対象外の作品とおもったらしく沈黙した」と記している。「ちいさな短歌同人誌」は、熊本市の蒲池正紀により主宰・発行されていた歌誌「南風」である。確かにこの歌は読む者を「沈黙」させる。だが、それは批評の対象外であるからでなく、歌の持つ迫力に圧倒されてのことであったはずだ。まさに「かの祖母」の狂いは、作者にとって自分のうちに隠れ棲んでいるものでもあった。主宰の蒲池正紀が「あなたの歌には、猛獣のようなものがひそんでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがよい」と評したことがあるそうだが、主宰は石牟礼短歌の底力をちゃんと見抜いていたのである。
 石牟礼さんのこうした歌人としての実力は、昭和31年(1956)、「短歌研究」の新人50首詠に入選しており、このことだけでも証明できると言えよう。
 そして、内なる猛獣をうまくとりおさえて、しかも自身の中にどうしようもなく存在するものを表現しきっているのが、昭和34年(1959)4月の作、
 
 
 雪の辻ふけてぼうぼうともりくる老婆とわれといれかはるなり
 
 
 これである。祖母・おもか様を詠った作の中で最も純度が高いものと言えるし、それのみならずこれは石牟礼文学の在りようを象徴してもいる。ここでひとつ、考えてみるがいい。『苦海浄土』は水俣における水銀禍つまり公害問題をつぶさに描いたから注目されたが、それで終わってしまう性質の書き物ではない。不知火海沿岸に住んで、大自然との共生をしつつ日々の生活を営んできた庶民達の生活が、どのような意味を有していたかが語られている。しかもそれが崩壊していきつつあるわけで、『苦海浄土』はほんとに日本の近代化の暗部へと如実に深々と達し得ている。作中、石牟礼さんはたくさんの漁民さんを登場させ、海での漁や日々の生活や水銀に冒されてからの惨憺たる状態やらを描いている。これら漁民さんたちの語りが、よくよく読むと、聞き書きのように見えつつ、すなわちルポルタージュのようなかたちをとりつつ、実は違う。「老婆とわれといれかはる」、これと同じことが行われており、石牟礼さんは患者さんたちの内なる喜怒哀楽を自ら引き受け、悶えたのである。悶え神は患者と入れ替わりを果たしているので、その声が太々と作品の中で綴られる。そう、「雪の辻ふけてぼうぼうともりくる老婆とわれといれかはるなり」、この歌はそのような象徴性を有している。
 しかも、短歌という三十一文字の器は、ここらあたりで満杯状態になったかと思われる。短歌という定型の器は、現実を収め切れなくなっていた。石牟礼さんは水俣病の世界を本格的に書くようになり、実際の患者支援運動にも深く関わっていく。もはや、悲しき玩具たる短い詩型に盛り込むには現実の動きの方が大きくなりすぎていた。石牟礼さんはもっぱら散文で現実と格闘せざるを得なくなっていき、昭和30年代後半からは歌を詠むことはしなくなる。
 さて、こうやって石牟礼道子の短歌世界を辿ってきて、与謝野晶子や石川啄木の青春短歌にまとわりつく気恥ずかしい空気はあったろうか。あろうはずがない。石牟礼さんの短歌は最初からこの世の不幸を一心に見つめた上で表現しきっているので、いわゆる青春短歌にはなりようがない。しかし、だからこそ若い頃の作であっても、歳を食った人間が読んで深く肯きつつ普遍的な問題として読み味わい、自分の問題として反芻することができるわけである。
 この3回、期せずして短歌について考えさせられたなあ。――なんだか、ため息が出そうである。
 
 
 

▲苦瓜。今、猛暑。苦瓜の蔓が茂って、緑のカーテンを作ってくれている。これでだいぶん暑さが和らぐ