第351回 女の言葉を聴いて下さい

前山 光則

 この頃、暇を見つけては石牟礼道子さんの短歌作品を拾い読みしている。
 最近、6月5日と6月23日の2度にわたって毎日新聞で石牟礼さんの1952年(昭和27)から53年にかけての若い頃の作品が紹介された。学芸部記者・米本浩二氏が、社内の保存用マイクロフィルムを丹念に辿って見つけたものなのだそうだ。これが面白かった。石牟礼さんはその頃25、6歳だったことになるが、毎日新聞熊本版の「熊本歌壇」に短歌を投稿していたのである。紹介されていたのは、全部で21首。当時どのような詠みっぷりをしていたかが分かるのである。その中から見てみると、

 男沢(おざわ)狂太の歌載りをらねば一抹のさびしさ持ちて新聞をたたむ
                       (1952年11月11日掲載)
 帰り来て冷え初めし夜の板の間に手をつき寄る倚ればきはまるかなしさ
                       (1952年11月11日掲載)
 吐息する毎にいのちが抜けて行く虚ろさを支えゐる暗き板の間に
                       (1952年11月11日掲載)
 ひとのいふ事に容易にうなづかぬ年齢よ虚構も時に生きる術となる
                       (1952年12月7日掲載)
 揃い生ふる葱に月夜は透りつゝ白猫が音もなくかがみ来て去る
                       (1953年1月17日掲載)

 この5首であるが、最初の3首について歌壇選者の蒲池正紀氏は「鋭い個性のひらめきがある」と誉め、中でも3首目の「吐息する……」は「とくに佳」と評価が高い。4首目「ひとのいふ事に……」については選者評は「下句が独断に流れている」と厳しい批評だ。この歌の下句ならば「虚構も時に生きる術となる」の部分であるが、しかしこれは「独断」に流れているだろうか。そうでなく、たいへん斬新な表現なのではなかろうか。
 5首目「揃い生ふる……」については、これはもう1首、

 中腰にて用足し終えて白猫が土はかけつゝ我をうかがふ

 という歌と共に載ったようである。「詩的に捉えた猫の生態」、これが2首まとめての選者評である。
 右の5首のうち2首目から5首目までは後に歌集『海と空のあいだに』(1989年、葦書房刊)に収めてあり、石牟礼さん本人も自信があったのではなかろうか。
 「ひとのいふ事に容易にうなづかぬ年齢よ虚構も時に生きる術となる」に対しての選者評に対してつい疑問を呈してしてしまったが、それはそれとして、この選者・蒲池正紀氏は全体的には石牟礼道子という新鋭の登場をしっかりと見守ってくれていたのではなかろうか。1953年1月6日掲載の歌、

 うすれゆく逆光の中にコスモスが揺れをりひとくきの放心よりかへる

 については「鋭い感覚のメスが截り取った詩」との評である。確かに秋の風光の中での感覚の発露が、斬新である。蒲池氏は、他にも「常識と非常識の世間というのでなくそこに詩をつかむこと」「短い間隔で描写が鮮明」「新しい感性を生かそうと努めている」等々、石牟礼さんの応募短歌に短いながら的確な評言をつけてくれている。並の投稿者でないことを見抜いていたのである。
 それから、

 さらさらと背中で髪が音をたてますああこんな時女の言葉を聴いて下さい
                       (1952年12月5日掲載)
 乾き初めしシーツのゆるく間を縫いて秋のあげ羽が舞ひ下り来る
                       (1952年12月28日掲載)
 舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽は静かなるもの
                       (1952年12月28日)
 谿間深き木の間がくりのせせらぎは落葉の声を聴く如くにて
                       (1953年1月8日)
 熊笹のしげり冷たき帰りみちキジバトのこゑ時にするどし
                       (1953年1月8日掲載)

 こういう歌には、選者の評はついていない。数ある投稿作品の中から選び出し、掲載はしてくれたものの、特に論じておくべき特徴はないと判断されたのであったろうか。だが、読んでみるとどれも平凡とは思えない。なかなかに良いのであり、とりわけ1首目「さらさらと……」の歌は、下句に「ああこんな時女の言葉を聴いて下さい」とある。アッと声を挙げたいほどに鮮烈であった。これは、自らの思いを噴出させずにはいられない一人の女性が、堪えきれずに発した一声であろう。
 それで思い出したのだが、『葭の渚 石牟礼道子自伝』の中に右の歌は出てくる。この本の後半部で、毎日新聞熊本版の短歌欄に投稿したり、その選者・蒲池正紀氏が創刊した歌誌「南風」に入会した頃の話が語られている。そして、短歌仲間のうち最も心惹かれていた志賀狂太について触れてある。最初に挙げた歌「男沢(おざわ)狂太の歌載りをらねば一抹のさびしさ持ちて新聞をたたむ」の「男沢狂太」は、この志賀狂太のことである。志賀狂太は「虚無感をたたえながら、至純さが匂い立つような彫りの深い歌をつくる人」で、「春の野のような若さにあふれている」、そのような雰囲気の歌人だったようである。残念ながら1954年(昭和29)4月、27歳で人吉市で自殺する。
 『葭の渚 石牟礼道子自伝』によれば、この志賀狂太が、右の「さらさらと……」については、
「さアあなたからどんな言葉を聞かして貰へるでせう。悔しいこと? あなたが持つてゐられる不満? 女の言葉? また『うつたへ』は何でせう? 人生(冷たい戦いの場)のシッコクから逃れんとする試み=それは希望、いや理想を求めて――具象化が欲しいですね。特に下の句に」
 と手紙で書いてよこしたそうである。評価が辛いのである。だけど、そうであろうか。「ああこんな時女の言葉を聴いて下さい」、これは具象化など要らぬ、純粋の叫びではなかったろうか。そんな気がしてならない。もっとも、石牟礼さん自身も歌集『海と空のあいだに』には収めておらず、やはり満足できぬ出来映えとして処理されたのであったろうか。とても魅力的な詠みっぷりだがなあ、と首を傾げたのであった。
 ともあれ、石牟礼道子さんの若い頃の短歌作品ひとかたまり、実にみずみずしいものが感じられた。ありていな言い方しかできないが、やはり非凡な才を持つ人の詠だな、と感心した。
 

▲水俣市街を山の上から遠望。街を割って水俣川が流れているが、河口の右手、橋を渡って間もなくのあたりに石牟礼家がある。河口の向こうは八代海(不知火海)である。