第360回 宗不旱を忘れてはならぬ

前山 光則

 12月23日は、昼飯を食べた後、山鹿温泉鉄道の終点であった山鹿駅跡にも行ってみた。そこは町外れであったが、来民(くたみ)駅跡以上に宅地化してしまっており、サイクリングロードの他には往時の面影はほとんどなかった。また、何か手がかりでもあればと思って山鹿市の教育委員会にも行ってみた。そうしたら、応対してくれた人が、
「志賀狂太という人のことは全然知りませんが、短歌というなら、来民は宗不旱(そう・ふかん)が育った土地ですなあ」
 こう教えてくれたので、遅まきながらハッと気づいた。そうなのだ、来民は放浪の歌人・宗不旱ゆかりの地である。この歌人のことを忘れてはならぬなあ。不旱には、

 くちなしの実もて色塗るふるさとの来民の団扇春の日に干す

 こういうふうに名産品の団扇をうたった作品もある。荒木精之著『宗不旱の人間像』(古川書房)によれば、不旱は、1884年(明治17)に熊本市のど真ん中、上通(かみとおり)四丁目で生まれている。本名は耕一、後に耕一郎。熊本育ちの町っ子だったが、父親が来民出身であった。6歳からは祖父の住む来民に住み、多感な少年時代を過ごすのである。だから、右の歌にあるような来民団扇の作られる様子もつぶさに見て育ったようである。長じて歌に志し、万葉調の優れた歌を詠むようになるが、厳しく歌の道を追究するあまり齋藤茂吉や北原白秋といった先輩らの作を批判し、疎(うと)まれてしまう。生活面でも苦しい状態が続き、硯(すずり)職人として優れた腕を持ちながら各地を放浪した。そして、1942年(昭和17)5月末に、菊池郡旭野村(現在、菊池市旭志)あたりの山中で行方不明となり、四ヶ月後に死体が発見された。享年、58。5月30日に阿蘇内牧の達磨温泉で書きのこした、

 内の牧朝闇いでて湯にかよふ道のべに聞く田蛙の声

 この歌が絶筆となった。
 不旱は放浪を重ねたものの、故郷への親しみは失わなかったようで、

 これの世に肥(ひ)の国山鹿ちちのみの父の老ゆらく肥の国山鹿
 火の国の豊日の郷(さと)の醸(か)み酒の赤酒くめば春したぬしも
 あけらけき光に来てはふる郷の枯野ひろしと眺めてはをり

 こうした歌には来民への愛郷の情がにじみ出ている。山鹿市鹿本町来民は、この放浪の歌人を育んだ町である。
 宗不旱は明治17年生まれ、志賀狂太は昭和2年生まれである。年齢差を考えれば、双方の間に交流というか、接点があったとは思えない。ただ単に来民をふるさととしているだけのことだ。しかし、不旱も狂太も研ぎ澄まされた感性を持ち、趣きある独特の詠み方で短歌を遺している。実際、志賀狂太自身は不旱の生きざまについて意識するところがあったかと思われる。ちなみに、志賀は1951年(昭和26)11月23日の「第二回宗不旱短歌会」という催しに、

 故郷(ふるさと)に君を宣(うべな)ふ人なくて旅に叫びし君がうたぐさ

 を発表し、第1位に輝いたことがあるのだそうだ。何といったら良いだろうか。そう、「虚無」を抱え込んで生きる姿勢とでも喩えようか。両者それぞれの「虚無」の有りようは異なっていたかも知れないが、同じような傾向があったような気がしてならない。
 ともあれ、12月23日の来民行では、詳しいことは分からなかった。しかし、やはり思い切って出かけただけのことはあったゾ。実際に来てみなければ何も分からぬままだったのだから、と、そう自分に言い聞かせながら、最後は山鹿温泉元湯の堂々たる大浴場「さくら湯」に浸かってから帰途についた。
 年末の忙しい時期につきあってくれたK氏には、感謝した次第であった。気さくにつきあってくれる人がいなければ、行かずじまいになっていたかも知れなかった。
 家に帰ってから、改めて『葭の渚』を開いてみた。石牟礼さんは、こう書いている。

  人間を知るということはたいへん難しい。短歌史上に知られた歌人たちは少なくないが、この人のように、時代の憂悶(ゆうもん)をずっしり抱えて、深みのある歌を作った人は、そうたくさんはいないと思う。わたしはこの人に励まされて、表現というものにまたとない示唆を得た。贈られた歌の中で、忘れられない一首がある。

  逢はんというそのひとことに満ちながら来たれば海の円(まろ)き静まり

  ここに歌われた海は、湯の児海岸の手前、和田岬の突端から眺めた不知火海であった。 息子の道生を連れて、わたしは狂太さんを、幼いころにゆかりのある場所に案内した。

 ははあ、志賀狂太が水俣を訪ねた折りには石牟礼さんは息子を連れて会ったのであったか。長男の道生氏は、当時、5歳くらいだったかと思われる。それにしても、志賀狂太のことを「この人のように、時代の憂悶(ゆうもん)をずっしり抱えて、深みのある歌を作った人は、そうたくさんはいないと思う」と石牟礼さんは自叙伝で記した。年数が経ってしまった後でも、このように印象深く記憶に刻まれていたのだな。やはり結構影響を受けたのではなかったろうか。読みながら、しみじみとしたものが感じられた。

▲山鹿温泉元湯さくら湯 山鹿温泉の中心部にあり、藩政時代、細川の殿様が愛好したのだそうで、400年余の歴史がある。入湯料は350円、安いものである。