第368回 「天職欲し」と願った人

前山光則 

 春先からのここ数ヶ月、新型コロナウイルスが流行ってきたため遠出することが憚られた。どうしようもなく必要が生じて出かけることが何度かあったが、マスクをはめて行動しなければマズイ、人と会うにもなるべく距離を保つよう心がける等々、神経をつかわねばならなかった。しかも用を済ませたらすぐに帰って来る、という具合で、まことにせかせかしたものであった。県境を越えての不要不急の場所移動は慎め、とのお達しも出たりしたから、ゆったりとした気分でのいわゆる「旅行」などまったくできなかった。
 当然、家におとなしく居ることが多い。となれば自ずと本も読むことになるので、おかげでこの数ヶ月間は読書量がぐんと増えた。
 色いろ読んだ中で今回話題にしたいのは、花田春兆(はなだ・しゅんちょう)著『天日無冠』(刀江書院)・『ウワちゃんとおはるさん』(読売新聞社)、この2冊である。
 花田春兆氏は、本名を政国(まさくに)という。大正14年(1925)に父親の当時の勤務地であった大坂で生まれたが、生涯のほとんどは東京都港区元麻布で過ごした。なんでも、ご先祖は薩摩藩士だそうだ。父親は官吏で、横浜税関長や大蔵省専売局長等を歴任した人であるらしい。だから家は比較的恵まれた経済状態だったが、春兆氏は生まれ落ちた時にはすでに脳性小児マヒに犯されていたそうだ。生涯、自力での起立は不可能の状態であった。外に出るには誰かにおんぶされるか、車椅子を使って動くしかなかった。
 昭和9年(1934)、設立されたばかりの肢体不自由児収容校光明学校(東京市立)に入学し、教育を受ける。母親や、氏が満8歳になろうとする頃に花田家にやってきたお手伝いの中村美子(はるこ)さんたちに介助されながらの毎日だったが、逆境にめげぬ根性と明るさを持った人であった。やがて文学、特に俳文芸に目覚めて、生涯文筆活動を続けるのである。昭和29年(1954)、中村草田男(なかむら・くさたお)が主宰する俳誌「萬緑」に入会する。ちなみに、草田男は、「萬緑の中や吾子の歯生え初(そ)むる」等の句で広く知られている。入会後、春兆氏はたちまち有力な詠み手として育ち、昭和33年(1958)には第1回「萬緑新人賞」を、さらに昭和38年(1963)に第10回「萬緑賞」をも受賞した。だから、この人は俳人としてレベルの高い実績を遺した人である。無論、身体障害者に対する世間の偏見を正す運動に積極的に参加・推進しつづけた。その方面に関する著書も『日本の障害者・今は昔』等、数多いし、昭和55年(1980)には国際障害者年日本推進協議会副代表に推されたりもした。他にも内閣府障害者施策推進本部参与を務めたりなどして、活躍。平成18年(2006)には春の園遊会に参列している。平成29年(2017)5月13日、91歳で亡くなられた。
 花田春兆氏の前半生を如実に知ることができるのが、昭和41年(1966)10月に読売新聞社から刊行されて話題を呼び、版を重ねた自伝『ウワちゃんとおはるさん』である。「ウワちゃん」とは、ご自身のことを周囲がそう呼んでいたのだそうで、いわばニックネームである。「おはるさん」は、まだうら若いうちに花田家におてつだいとしてやって来て、ずーっと献身的な世話をしてくれた中村美子さんだ。この『ウワちゃんとおはるさん』は、読んでいて時間を忘れてしまう。脳性小児マヒに犯された一人の人間の無念さ、でもそのような境遇にめげずリハビリを受け続け、学問に目覚め、俳人としても障害者研究家としても力強く成長して行った春兆氏のひたむきさ、結構ネアカな性格で周囲を和ませた春兆氏の精神的健康さ。しかも周囲の人たちは、父親も母親も、お手伝いのおはるさんも無限の愛情で春兆氏を世話してくれる。そのような人間愛が、一冊の最初から最後までいっぱい溢れている。
 しかも、『ウワちゃんとおはるさん』の最後の方では、ウワちゃんこと春兆氏が30代も半ばを過ぎようかという頃、良き伴侶に巡り会う。2人の間には、やがて一男一女が生まれ、つまりウワちゃんは重度の身体的障害をものともせず立派に家庭を築くのである。
 わたしは『ウワちゃんとおはるさん』が刊行された翌年頃にふとしたことで花田春兆氏と知り合うことができ、わりとひんぱんに港区元麻布の御自宅にお邪魔する一時期があった。当時わたしは法政大学第二文学部(夜間部)の学生だったが、昼間は雪華社という小出版社に勤めていた。その雪華社から朝日新聞社学芸家庭部・編『おんもに出たい――身体障害者の苦悩について』という本が刊行されたところ、花田氏はすぐに電話してきて、良い本だから自分たちも仲間に広めたい、と、販売を申し出てくださったのだった。だから、最初に御自宅にお邪魔した時はその本を運んで行った。そこらは仙台坂と呼ばれる丘陵地帯であるが、御自宅は言うまでもないこと、まわりにも立派な邸宅が多かった。花田氏の声は正直なところ聴き取りにくかった。しかし、慣れるとそうでもなかった。実によく勉強をしておられたし、なによりも考え方がしっかりしていた。すでに一人の俳人として実績があり、味わい深い句をたくさん詠んでおられた。会って話をしていると、いつも愉しかった。そしてまた、奥様が気さくで良い方で、いつも快く迎えてくださった。その時分に『ウワちゃんとおはるさん』をいただくことができてすぐに読み、感動したのであった。このたび久しぶりに読み返し、また改めて花田家のチームワークの良さと春兆氏自身の明るいしぶとさに尊敬の念を抱いた。
 改めて気づく点も、あった。それは、氏が肢体不自由児収容校光明学校の小学校課程を終えた時のことである。軍医の叔父さんが、「卒業祝い」にと『子規全集』全15巻をプレゼントした、というのである。春兆氏はそれまで野口英世を一番に尊敬していたが、叔父さんからのこの卒業祝いによって違った視野がひらけたそうだ。「はじめて私の財産となったこの全集は、あてどなき読書遍歴のなかでも、そのときどきの安らぎを与えてくれる港のように、いつでも私を、憩わせてくれた」と、こう記すのだから、まだ少年(13歳)であった春兆氏にとって「正岡子規全集」は、まさに「事件」であった。春兆氏は、さらにこう書いている。
「俳句・短歌・俳論・歌論・随筆・古典俳句集成など多面的な結晶は、読んでいく目に興味深い様相を見せてくれたが、その大部分が、歩くことはおろか、寝たきりの病床から創(つく)り出されたということは、一つの驚きとともに、私の夢とファイトをかきたてるにじゅうぶんだった。じゅうぶんの学歴と、健康人だったころの豊かな経験を持ち、驚異的な筆まめの手を持っていた点では、明らかに彼のほうが恵まれているが、身を病苦の痛みにわずらわされないですむという点では、わたしのほうがはるかに恵まれているはずなのだ。一生をかけても、この全集に匹敵するだけの全集をのこせるような仕事をしたい。それまではどんなことがあっても死にたくない……と、いつのまにか自分できめていた。決心というより執念に近いものになっていった」
 考えてみれば、正岡子規はわずか35歳という若さで亡くなったが、その間、健気に難病の脊椎カリエスと闘いながら病床で俳句・短歌の改革を成し遂げた人である。これを範とせよと、甥っ子の人間的成長を願って『子規全集』をプレゼントした軍医の叔父は、実に見識があったのだ。ただ、それにしてもまだ小学校の課程を終えただけの13歳の甥っ子へ、これを買い与えた。春兆氏こと政国少年がひどい障害を負いながらも知恵と気力とに溢れているということを、この人は早やばやと見抜いていたのであったろう。事実、プレゼントを受け取った本人は、見事にこれに応え、正岡子規を範として人間的成長を果たしていったことになる。今回、読み返してみて、このような点が最も強く印象づけられた。自分は凄い人といつも会っていたのだなあ、と、あらためてため息が出る思いである。
 昭和38年(1963)9月刊行の第一俳句集『天日無冠』、これも御自宅に遊びに行ったときに氏からいただいた。

 子猫が笑ふ坐つてゐても転ぶ癖
 天職欲し一心にすゝむ目高の列
 月も豊頬夕蕎麦畑に乙女居て
 みぞるゝやかはす言葉のうらおもて
 麻痺の手をこぼれつゝ水なほ澄めり
 初冬や「こはれぬ食器」はただ一色
 姉欲しかりし少年の日よさくら貝
 春愁や汝(な)れも歩かぬ影法師
 雪を来る若ければ友うつむかず
 十三夜欠けし風鈴ふとひびく
 銀杏がへしを知るは母のみ一葉忌
 君がくるゝ葡萄一粒づゝに君

 収録された549句の中から引いてみたが、いずれもしっかりした詠み方である。  一句目・二句目・五句目・八句目は、作者の身体的障害が投影された作だ。一句目は、ちゃんと座ろうとしても体が不自由ですぐに倒れてしまうため、それを猫から笑われている始末だ、というのである。また、二句目「天職欲し一心にすゝむ目高の列」、これは一心に進むメダカたちを見てその自由自在さにうらやましさを抱いている作者が見て取れる。体さえ思うまま動くなら自分だって天職を持てるのになあ、と悔しがる作者。痛切である。
 そして、五句目、マヒした手だから、水がこぼれてしまう。しかし、そうでありながら、水の澄みようが良いので、そこに秋の風情を感じている。心に余裕があり、目のつけどころが違うわけだ。また、八句目は、自分の影法師をじっと見つめての作。自分自身が動けぬから、影法師も動けぬと言う、そこになんともいえぬ「春愁」が生じている。
 作者が障害を持つということを知っていなくても充分に鑑賞できるのが、まず三句目、これは健康な色気が感じられて、なかなかの作であろう。次の「みぞるゝやかはす言葉のうらおもて」の辛辣な詠み方は、どうだ。氏は批評力をたっぷり持った俳人だ、と言える。 また、六句目、これは給食用の食器の味気なさを詠んでいるはず。七句目を見ると、氏にはお姉さんがいなかったことが分かる。そうか、姉がいないというのは実にさみしいことなのだ。
 最後に引いた「君がくるゝ葡萄一粒づゝに君」、これは葡萄をくれた友への感謝の念が実に見事である。やはり花田春兆氏は第一線でやってゆける俳人なのであった。
 花田春兆氏は、メダカたちの一心に泳ぐ様子が羨ましくて「天職欲し」と詠み上げた。しかし、花田氏は自身の身体的障害を見つめ、闘い、俳人・文筆家として立派に仕事を続けた。家庭生活も営んだ、障害者運動を生涯にわたって続けた。これはもう立派に「天職」であった。体は不自由なままだったものの、やはり氏は天職そのものを立派に生きた人だったのではないだろうか?
 花田春兆氏の旧著2冊を読み終えて、そのような思いである。
 
 
 
 

▲花田春兆氏のサイン 俳句集『天日無冠』をくださった時、扉にサインしてもらった。書かれている句は、「姉欲しかりし少年の日よさくら貝」。