第432回 『平島大事典』を読む 

前山光則 
 
 今回は、まず朗報! 2月下旬に第45回熊日出版文化賞が発表されたが、坂本桃子さんの『食べて祀って――小さな村の祭りとお供え物』(弦書房)が見事選ばれていた。しかも、その中でも特別賞と称すべき「熊本ジャーナリズム賞」である。心からおめでとう! あれはふるさとへの真心がこもった、実に良い本だ。ほんとに良かったなあ、と思う。
 さて、最近手にした新刊本で稲垣尚友著『平島(たいらじま)大事典』(弦書房)、これはたいへん分厚い一冊である。なにしろ本文三段組みで全554ページ、重さが1.12キロあり、手に持ってみるとズッシリしているが、とても興味深い、内容豊富な本だ。しかも、「事典」であり、初めの方から順に辿る必要がない。どこを開いて読み始めても構わないのである。全部で700を超える項目が五十音順に並べられ、いちいちについて詳しく説明が施されている。というか、「説明」だけでなくそれぞれの項目にまつわる島の生活が活きいきと綴られており、だからこの本は「平島大事典」と称するよりもむしろ「平島物語」と呼んでやりたい。
 平島は種子島や屋久島の南にあり、奄美大島よりも北に位置している。いわゆる「トカラ列島」の中の一つであり、鹿児島県十島村(としまむら)に属する。「島の周囲が7キロ弱、面積が2平方キロメートル」というから、まことに小さな島だ。ちなみに本書中には『十島村誌』に記載された平成23年(2011)当時のトカラ各島の人口が記されているが、口之島125人、中之島155人、臥蛇島0人、平島78人、諏訪之瀬島63人、悪石島77人、小宝島49人、宝島128人であり、合計すれば675人。村の全人口が平成23年の時点で700人に達していないわけであり、ほんとに小さな村なのだ。そして、そんな中で平島は、平成30年(2018)3月には人口64人だったという。「最も多いときは一九五五年前後、つまり昭和三十年前後には二百人を超えていた」と著者は記している。つまり、昭和30年頃に比べたら、島の人口は3分の1弱に減ってしまっていることになる。
 なお、十島村は、役場は鹿児島市内に置かれている。
 さて、著者の稲垣尚友氏はかつてこの平島という小島に長らく住んで、働き、生活した経歴を持つ。そこでは島民たちと交わって色んな仕事をしただろうが、とりわけ竹細工の技術を身につけ、やがてそれは本職となった。しかも、竹細工職人としての技術を習得する際に、その努力ぶりは徹底しており、昭和52年(1977)4月末からわざわざ遠い熊本県球磨郡錦町の竹本一之さんのもとへ出かけて弟子入りし、3ヶ月間ほど修行をしているのである。その時期のことについては、稲垣氏御本人が昭和53年(1978)1月発行の雑誌「あるくみるきく」第131号(近畿日本ツーリスト・日本観光文化研究所発行)に「籠作り入門記」を発表し、詳しく報告している。
 さて、本書では、この島にどのような生活が営まれ、日常どんな言葉が用いられているか、ていねいに説いてある。使われている言葉が、実に独特のニュアンスを有している。
 例えば、「やまいも掘り」とは本土では酔っ払いのくどくどしい酔狂を言うが、これが島ではちょっと違うのである。「酔いが回ると、話を掘り下げようとして、口角泡を飛ばしてああ言えばこう言うような、根元にたどり着かない対話が続く。挙げ句の果ては言い争いになる」と、これが平島での「やまいも掘り」。つまり、互いに生きていくための意思疎通の在り方に関する用語なのだそうだ。
 あるいは、「一方仕事」という言葉がある。これは「専業」「専門的な仕事」のことだという。「一方」には、「真っ直ぐな」とか「混じりっ気がない」という意味が含まれているそうだ。ただし、平島の中では純然たる「一方仕事」は育たない、と稲垣氏は説明する。なぜかと言えば、「人口も少なく、また貨幣の流通が拡大していく機運も望めない」から、専門的な技術が現金を獲得する元手となり得ないのだそうだ。なるほど、平島はそのようにもこじんまりした生活空間なのである。
 そして、「加勢」という語、これは本土の方では、普通、他人から労働力をもらうこととして「加勢をもらう」と言うであろう。だが平島では、「カセイは制度のひとつ」だそうだ。すなわち、新築家屋を建てる場合など、部落じゅうが集まって来て力を出し合う、これが「もっとも大がかりなカセイ」となる。
 「しょけん」という語もある。漢字では「世間」と書くのだが、内地での「世間」とは違う。平島では、「世間は広いようで狭い」というような意味合いでの「世間」は存在しないのだそうで、つまりはそれほどに平島は小さくて、狭い。ただ、人口が少ないとは言え、そこが人間の集まりである限り「より小規模な『世間』は存在する」と稲垣氏は言う。人数が少ないなりに、一つの集落の中に「体制派」とそれに対する「反体制派」ができるのと同じで、ただ、「他人を強く意識している」といった意味合いでの「世間」は存在するのである。
 他に、「いたしきばれ」、これは「見知り祝い」つまり歓迎会のことだそうだ。「きりかえばた」といえば、焼畑を意味する。「さばき(捌き)」、これは「櫛」のことだという。「としなし」というのは、漢字で書けば「歳な衆」だそうで、「年寄り」または「年長者」。それとか、「ちゅうのだて」という語は単に耳で聞いても何のことか分からないだろうが、漢字で書けば「手斧立て」、すなわち家を建てる際におこなう起工式を意味するそうだ。「ふつ」というのも載っており、蓬(よもぎ)のこと。しかし、「ふつ」は九州本土でも使われる言い方だから、ひどく懐かしくなってしまう。同じく「よま」は紐や釣り糸を意味する語であり、これもわたしたちなど人吉盆地でしょっちゅう使っていたなじみ深い言い方である。
 このようにアトランダムに辿ってみるだけでも、小さな島の中での独特な生活感覚が濃厚に胸に迫ってくる。かと思うと、わたしたちが幼い頃に田舎で使っていた言葉も散見されるので、ひどく懐かしくなってしまう。
 ともあれ、平島には平島ならではの独特の濃密な言語世界ができあがり、熟成されているのである。 
 さて、本書中に興味深い人物が登場する。それは、「うんどうじい」である。これは、漢字を用いて記すならば「押し黙り小父」だそうで、すなわち「うんどう」とは押し黙っていることを指すのだという。
 この「うんどうじい」は、本名、用澤重忠(しげただ)だそうだ。若い頃に本土へ渡り、東京で中央区明石町のカトリック教会に転がり込み、やがては洗礼も受けたという。大正12年(1923)には、その東京で関東大震災を経験している。大震災の阿鼻叫喚(あびきょうかん)を目の当たりにした後、「それまでは並の会話ができた」のだが、吃音となってしまい、人との会話がやや不自由になったとのことだ。そして島へ帰ってくるのだが、「平島帰島後にした最初の仕事」は、なんと「八幡様の焼き打ちであった」という。つまり、平島に鎮座する八幡神社に火をつけてしまったのであった。「うんどうじい」はそのような大変なことをしてしまったわけだが、「その一件があってから半世紀、重忠は翁になり皆からウンドウジイと呼ばれる身となった」という。しかも、「うんどうじい」つまり重忠さんは、島人から畏怖の念をもたれたのである。そして、「独身のまま、祈りと労働にあけくれる日々を送った」という。こういう人物を大切に扱うのが、平島の人たちなのである。
 稲垣尚友氏は、「溜めていたものを吐き出すに似た想いで筆をとった」と後書きで記している。この人は今まで、『密林の中の書斎――琉球弧北端の島の日常』『十七年目のトカラ』『山羊と焼酎』『悲しきトカラ』『青春彷徨』『灘渡る古層の響き―平島放送速記録を読む』等や、弦書房からも『戦場の漂流者・千二百分の一の二等兵』『占領下のトカラ――北緯三十度以南で生きる』を刊行して、島のことを詳しく書き著してきた。このたびのこの大著『平島大事典』は、これまで取り組んできたことの集大成と評して良いのではないだろうか。まさしく独特な生き方をしてきた作家・稲垣尚友でなくては書き著せぬ、希有なる結実を示す大著である。
 稲垣氏は、現在、千葉県鴨川市の郊外、小高い山々があって、その山懐になるような静かなところに住んでいる。平成26年(2014)9月、わが八代市の日奈久温泉で開かれた「九月は日奈久で山頭火」に講演をお願いしたことがあったが、その時は自家用のトラックの荷台に手造りの「書斎」を積んで、千葉県から遠路はるばる駆けつけて下さった。宿屋には泊まらず、日奈久港の畔りに車を停めて、「書斎」の中で寝泊まりして2泊3日を過ごされた。無論、食事は自分で火を焚いて料理をなさったのである。そして、「後ろ指さされる勇気にあやかりたい」と題した講演をしてくださったのであったが、いやはや実に逞しい方だなあ、と、感服してしまった。今でも、思い出すたびにため息が出てしまうほどである。
 
 

稲垣尚友氏とその愛車(トラック) 平成24年(2012)9月3日、千葉県鴨川市の御自宅にて撮影。稲垣氏は、旅行先ではこのトラック書斎の中で寝泊まりなさるのである。