前山光則
明けまして、おめでとうございます。
といっても、今日で1月ももう8日、正月気分はすでに遠のいてしまっていることでしょうが、改めて御挨拶申し上げます。今年はどんな一年となるでしょうか。どうぞよろしくお願いします。
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年末・年始、至って平凡に毎日を過ごした。
大晦日の夜は、家で炬燵に潜りこんでおとなしくテレビの紅白歌合戦を観て過ごし、それが終わったら帰省中の娘と一緒に1キロほど歩いて初詣でをしに行った。そう、これはもうずっと以前からそうしているのであり、麦島神社というところへ夜なかのうちに出かけるのである。神社に到着したら、まだ人影がなかった。しかし、参拝して社務所の窓口で御神籤(おみくじ)を買っていると、次第に人が増えてきて、やがてガヤガヤと賑やかになった。
元日はいつもよりちょっと遅く起き、屠蘇を飲み、お雑煮を食べたりしてからは、近くの川べりを散歩したり、あちこちからいただいた年賀状に目を通した。後は、のんべんだらりとテレビを観て過ごした。
次の2日であるが、午後から日奈久温泉へ初湯をしに行った。ところが、いつも行く温泉センターばんぺい湯は駐車場が満杯で、車が止められない状態であった。初湯をしに来る人たちでごった返していたわけだ。やはり誰もが元日のうちはまだおとなしく過ごすものの、2日となればあちこち出かけるのだろう。そんなわけで、ばんぺい湯ではたとえ入浴できたとしても人が多すぎてゆっくりできないゾときっぱり諦め、近くの「幸ヶ丘(さちがおか)」というところへ行ってみた。
ここは、木造平屋建ての古い旅館である。別に丘の上に立地するのではなく、温泉センター「ばんぺい湯」のすぐ裏手にあるのだが、建物は大きくてガッシリしているものの、なんといっても古ぼけた旅館だ。今はもう宿泊する客など滅多におらぬようで、宿の御主人ももっぱら入浴客への対応しかしていない。その代わりここの風呂場はだだっ広くて、浴槽からの眺めが良くて、いや、それ以前に湧出する湯の量が凄い。湯口は鯉の形をしており、その大きく開いた口先からダボダボと勢いよく飛沫を上げながら湯が噴き出してきて、硫黄の匂いが心地良い。入浴料500円だが、それ以上の満足感がある。
普段は、わたしは「ばんぺい湯」の方へ入りに行くのである。正式入浴料は520円だが、70歳以上の客と身体障害の人は310円で入らせてくれるからだ。そして、たまに贅沢な気分で温泉を楽しみたい時にはここ「幸ヶ丘」へ入らせてもらいに行く。
玄関口で御主人に挨拶して入浴料を払い、風呂場の方へ進む。ひんやりした廊下をちょっとだけ進むと、右手に浴場入り口。中へ入り、衣服を脱いで、浴槽の方に進む。豊富な量の湯が、音を立ててほとばしる。もう、観ているだけで嬉しくなってしまうほどだ。こんなにも豊富な湯を一人占めできるのだから、ありがたいことなのだ。初めは熱いけど、首まで浸かってジッとしていると、馴れてきて、その熱さが心地良さへと転じて行く。いやはや、久しぶりにここへ来たけれど、うん、やはり良かった。ばんぺい湯の湯も悪くはないが、あそこのは水でだいぶん薄めてあり、こちらの方がはるかにホンモノだな。今日はここの湯をじっくり楽しむのだ、と、なんだか嬉しくなった。
それで、ここ幸ヶ丘に一度だけ泊まらせてもらった時のことが思い出された。
あれは、平成2年(1990)9月8日のことであった。ここに、大山澄太(おおやま・すみた)氏、出水晃(いずみ・あきら)さん、わたし、この3人で宿泊したのである。 大山氏は放浪の俳人・種田山頭火と親しかった人であり、この人に翌9月9日の八代市内での講演を依頼してあったわけだ。というのも、わたしたちが読むことのできる山頭火の日記いわゆる「行乞記(ぎょうこつき)」は昭和5年9月9日から始まっているのだが、それは八代町萩原塘(はぎわらども)にあった木賃宿「吾妻屋(あづまや)」で書き記されている。つまり、山頭火が自らを「愚かな旅人」と自認して新たな行乞の旅に出た1泊目が、国鉄八代駅近くの木賃宿であったのだ。駅前で喫茶店を営む山頭火ファン出水晃さんにとって、これは感慨深い事実であったので、近くの球磨川畔にこれを記念すべく句碑を作ろう、というわけで有志を募った。そして、四苦八苦があった末に完成したのであった。その折り、四国松山在の大山氏には色々と相談にのってもらった。句碑に使う石は、大山氏の教示により四国から「伊予の青石」が取り寄せられた。これは、その石であれば何十年経っても表面に苔がつかぬから、とのアドバイスによるものであった。
石碑には、行乞記冒頭に記された山頭火の句「このみちや/いくたりゆきし/われはけふゆく」が刻まれた。さて、完成披露式は、せっかくだから行乞記の日付に合わせよう、とのことで9月9日と決定。そして、式の日には、大山澄太氏に御講演を依頼したのであった。澄太氏は、イベントの前日、四国の松山市からお出でくださった。だから、せっかくなので日奈久温泉、それも老舗旅館としての風格を保つ幸ヶ丘に泊まってもらうこととなったわけである。
お越しいただいた大山氏の接待役を務めたのが、出水晃さんとわたしであった。二人でわざわざ福岡市の板付空港まで御迎えしに行き、高速道路をつかって日奈久温泉まで案内してきた。そして、幸ヶ丘の大広間で、3人で夕食をとった。
大山澄太氏は当時すでに90歳に達しておられたが、矍鑠(かくしゃく)たる立ち居振る舞いであり、実にお元気な方だった。一緒に食事していても、好き嫌いがなく、食欲旺盛、膳の上の料理を残さず食べて、健啖な様子であった。酒もおいしそうにちびちびと飲んで、これはやはり酒好きな方であろうな、と思われた。
「いやいや、わしはのんた、若い頃から禅をやってきておるからなあ。じゃから、のんた、もう長年、腹を立てるということが、うん、ないな。ワッハッハッハ」
盃を傾けながら機嫌良くおっしゃる。「のんた」というのは、四国ではわりと使われる言い方ではないだろうか。「なあ、あんた」というほどの、軽いノリの言い方であろう。
とにかく話題が豊富であり、さすが『俳人山頭火の生涯』『山頭火の道』『良寛物語』『座禅五十年』等、多くの著書を著(あらわ)してきた人である。山頭火についての思い出話はいうまでもないこと、四国松山あたりのことや禅の修行のこと等、おもしろかった。
いや、それで、である。もう10時近くになっていただろう。泊まっていただくお部屋へとご案内した。そこはわりと広くなっている部屋で、襖を開けると3人分の布団がすでに敷かれてあった。つまり、真ん中は大山氏にゆっくり休んでもらい、その右と左にそれぞれ出水さんとわたしが寝ることができるように、宿の人が気を利かしてくれていたわけである。
ところが、3人分の布団を見わたした途端、大山氏が、怪訝そうな顔つきになって、
「なんだ、これは? 安い宿だなあ。わしは、のんた、家でも旅先でも一人でしか寝たことがないんだ」
とおっしゃる。そこで出水さんが、
「いや、はい、これはですねえ、先生の両脇にわたしたちが寝まして、先生をお護りいたしますから」
答えたところ、大山氏の顔がにわかに険しくなった。
「な、な、なんじゃと。わしゃあ、おい、子どもじゃないゾ!」
よほどに腹が立ったらしく、顔面が真っ赤っかである。これにはわたしたちも驚いてしまった。だが、ともあれ、カンカンに怒っていらっしゃるのだった。二人とも、
「あ、は、はいはい、そうでございますか」
ひれ伏してお詫び申し上げた。そして、宿の人に、わたしたち2人分の布団を別の部屋へ移すよう、お願いした。いやはや、ついさっきまでは「腹を立てるということが、うん、ないな」とすこぶる上機嫌であった御仁が、激しく立腹なさったので、驚くやら、可笑しいやら、実に愉快であった。
大山氏のお世話をしなくてすむようになった出水さんとわたしがたちまち極楽とんぼと化したのは、いうまでもない。少し離れた部屋に布団を移してもらった後、わたしたちとしてはまだまだ寝るまでには時間があった。一緒に旅館から飛び出て、すぐ近くの居酒屋へと入った。そして、出水さんが、すぐ近くに住む高田焼(こうだやき)の窯元・上野浩之(あがの・ひろゆき)さんに電話をして、
「おう、上野さん、まだ起きておるでしょ。俺たち、今、日奈久に来ておるばい。今夜は幸ヶ丘に泊まるのよな。そして、今から呑むとばってん、あんたもつきあわんかな」
もう夜の10時過ぎだというのに強引に誘ったら、上野さんはすぐに来て下さった。あれはまことに嬉しかった。
とにかく、夜は更けていたが、大山氏の傍に侍(はべ)る必要もなくなったのであった。3人で酌み交わしたあの夜の酒は、実に大変うまかったなあ、と、今でもほんとに懐かしい。無論、あの夜はすっかり午前様、そう、確か2時過ぎ頃まで日奈久の街で騒いだ。
そのような、ここ幸ヶ丘に泊まったずいぶん昔のできごとを思い出して、一人でニヤニヤしていたら、新客が入ってきた。小柄で痩せているが、引き締まった体。いかにも働き者といった感じの、年齢は80歳過ぎぐらいであろうか。衣服を脱ぎながらキョロキョロしていたが、やがてソロリソロリと浴槽の方に入って来られた。
「初めてお出でましたか」
と尋ねたら、
「はい、鏡町(かがみまち)からですばい」
「おや、鏡町、確かここからは20キロぐらいはあるでしょ。わざわざここまでお出でたとですか」
「娘が連れてきてくれました」
とおっしゃる。ほう、それならば御家族が女湯の方に来ていらっしゃるのであろう。
「女湯の方に、うちの嬶(かかあ)と娘が、一緒に入っとるですたい」
「御家族で、そうですか、いや、それはまあ、良かですねえ」
ここ幸ヶ丘は、こんなふうにわざわざ遠方から家族連れで入りに来るケースが結構見られるのだ。その人は、実に気持ちよさそうに浴槽に身を沈めた。わたしも、いつもよりももう少しゆっくりして居よう、と思った。なにせ、お正月だからな。
さて、そして、1月3日は娘と共に水俣市湯の児の友人宅に新年の挨拶をしに行くことになっていたが、出かける前、午前9時、出水晃さん経営の喫茶店にコーヒーを飲みに行った。これはかねてからの習慣であり、朝からホットコーヒーを啜らなければどうも一日が始まったような気がしないのである。大晦日から1月2日まではその店が休業していたから、その日は久しぶりであった。
いやあ、今年初めての淹(い)れたてのコーヒー、まことにおいしかった!
2025・1・8