第468回 おかねが泣きて口説(くどき)き居(を)り

 時折り、本棚をいじってみる。かねては無造作に本を取り出したり、空いている場所へ戻したりしており、良い加減というか、乱雑になりがちだ。たまにはきちんと並べ直したり、入れ替えを試みたりしてみたくなるわけである。
 そのような次第で、数日前、本棚の前に立ったら、ちくま日本文学全集の中の一巻『石川啄木』が目にとまった。いやあ、啄木はとても懐かしい。
 高校時代に愛読したのである。なにしろ、とても心惹かれた。では、どんなところに共感したのかと言えば、何というか、青春の熱さ、切なさ、やるせなさ。読んでいると、石川啄木が生きた時代とか境遇の違いなどを超えて、若い者ならではの熱い思いが1首1首から伝わってくるのだった。短歌1首を3行に分けて提示するやり方も、独特の空気が醸し出されるので魅力的であった。以前にも第301回「函館と啄木の歌」でこの人については触れたことがあるが、今あらためて見てみると、

 東海の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に
 われ泣きぬれて
 蟹(かに)とたはむる

 不来方(こずかた)のお城の草に寝(ね)ころびて
 空に吸はれし
 十五の心

 宗次郎(そうじろ)に
 おかねが泣きて口説(くどき)き居(を)り
 大根の花白きゆふぐれ

 等々、啄木の歌は今でも諳(そら)んじている。なんだか、高校時代、自分で努力せぬまま自然と頭の中に染みつくのだった。強いて暗記しようと努力する必要は、なかった。
 さて、啄木の歌の中で、

 いたく錆(さび)しピストル出でぬ
 砂山の
 砂を指もて掘(ほ)りてありしに

 この歌、砂山の砂の中からピストルが出てきた、などとはえらく物騒なことである。しかし、どこかで聴いた台詞(せりふ)だな、と、高校生のわたしは首をかしげたものであった。そう、昭和33年(1957)発売の、石原裕次郎がうたった「錆びたナイフ」である。あれは同名の日活映画の主題歌だが、

 砂山の砂を指で掘ってたら
 まっかに錆びた
 ジャックナイフが出て来たよ
 どこのどいつが 埋めたか
 胸にじんと来る
 小島の磯だ

 とある。裕次郎の歌い方には男の哀愁が滲(にじ)んでおり、詞にぴったりフィットしてファンたちの胸をしびれさせていた。啄木の方は「ピストル」、映画の主題歌は「ナイフ」、こうした違いがあったが、ははあ、裕次郎の「錆びたナイフ」は啄木の歌を真似しているのではなかろうか。田舎住まいのボンクラ高校生も、それくらいの勘は働かせたものであった。
 実際、勘は当たっていた。最近読んだ島野功緒著『昭和流行歌スキャンダル』(新人物文庫)という本によれば、当時、若い批評家がこの「錆びたナイフ」について「従来の歌謡曲にない着想だ。目のつけどころがいい」と歌詞を激賞したところ、作詞者・萩原四朗は「あれは盗作ですよ」と言って「カラカラと笑った」のだそうだ。つまり、パクリであることを自らあっけらかんと認めたわけだ。「錆びたナイフ」を誉めあげた批評家の方は、啄木の短歌を読んだことがなかったものと思われる。
 この「いたく錆し……」の舞台は、どうも、「東海の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に」と同じ場所ではないだろうか。つまり、北海道は函館市、あそこの大森浜である。市街地から南西部へかけて半島が突き出ており、半島は山をなしている。そこは函館山と呼ばれ、山頂からの夜景がたいへん素晴らしい。その半島の東側、青柳町の前に広がる海岸線が大森浜である。そののどかな浜にピストルが埋まっていた、というのだから、なんだかとても物騒な話だ。
 啄木は、明治40年(1907)5月に岩手県渋沢村から函館へやってくる。弱冠21歳ながら妻子を伴っており、函館商業会議所の臨時雇いや代用教員、地元新聞社の記者をしたりして後、その年の9月には小樽へ移る。さらに翌年1月には釧路へ移住し、4月にまた函館へ舞い戻る。だがその月のうちには東京へ出る、というふうに大変慌ただしいが、その間の作であろう。  
 大森浜には、平成29年(2017)初夏の頃に女房と一緒に北海道旅行をした折り、立ち寄ってみた。市電から下りて歩くと、すぐに海辺へ出る。曇り空の下、北東の方角へと浜が続いていた。別にどうってこともない平凡な海浜だが、水はたいへんきれいであった。そして、自分としてはそれで充分だった。ありふれた風景の中から非凡なものを創りだしてくれるのが文学者なんだからな、と思ったのである。そうした次第なので、「いたく錆しピストル出でぬ」の歌はわたしにとってたいへん印象深いものがある。
 無論、啄木には他にもたくさん良い歌があり、幾度も話題にしてみたくなる。
 ただ、啄木というなら、普通には、やはり、読者としては、

 東海の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に
 われ泣きぬれて
 蟹(かに)とたはむる

 砂山の砂に腹這(はらば)ひ
 初恋(はつこひ)の
 いたみを遠くおもひ出づる日

 こころよく
 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ

こういった作品が思い浮かぶだろうか。他の歌人たちが自作を一行で書き記すのに対して、啄木は独特の三行書きで通した。それはこの人ならではの独特な世界を醸し出したのだなあ、と、いつも思う。
 そして、わたしなどは、先に引いた、

不来方(こずかた)のお城の草に寝(ね)ころびて
 空に吸はれし
 十五の心

 これも、好きな作品だ。若い頃、NHKに用があって東京へ行った時に臨時収入に恵まれたものだから、ついでに思い切って岩手県方面へも旅してみたことがある。そして、あの時は盛岡市へ着いてからすぐさま不来方城址へ行ってみたんだったなあ、と、懐かしくなってしまう。ここは、盛岡藩南部氏の居城だったのだそうだ。城址からは盛岡市街をひろびろと一望できて、いやはや実に気持ちよかった。不来方城址へは、もう一度訪れてみたいくらいだ。
 さて、だが、それにしても、である。先に引いた一首「宗次郎(そうじろ)に/おかねが泣きて口説(くどき)き居(を)り/大根の花白きゆふぐれ」は、啄木の作品中、ちょっと異色の雰囲気を有してはいないだろうか
 若い頃この歌に初めて接した時には、おかねという女性が宗次郎なる男性を相手に愛の告白をしている、と思った。しかも「泣きて口説(くど)」くのである。宗次郎はなかなか相手の女性の熱い思いを受け入れてくれず、だからおかねさんとしては「泣きて」、つまり必死の思いで宗次郎を口説いているわけなのだろうか、相当に情熱的な東北女性だよなあ……と、まあ、こういう受け止め方をしたのだった。 
 ところが、やがて違った読み方が伝わってきて、この場合のおかねという人は宗次郎の母親であるようなのだ。すなわち、母おかねが自分の子・宗次郎に向かって盛んに説教している、という場面。宗次郎は、聞き分けのない男の子であったのだろうか。親の言うことをいっこうに受け入れてくれぬので、おかねはとうとう泣きながら説教を続けた、ということになるのだろう。東北は岩手の野づら、大根の花が咲いているような畑地で親子が向かい合っている。母親が、懸命にわが子に「口説(くど)き」を、つまり説教をしている、という構図――そうなると、なんだか、あの地方の素朴な風景が目に浮かんでくる歌だなあ、と思う。
 それからまた違った読み方があり、それは、宗次郎は夫であり、おかねはその妻。つまり、妻が、飲んだくれの夫に向かって、お願いだからもう呑まないでおくれ、と泣きながら説いているのだ、との解釈。
 さてさて、どの読み方が正しいだろうか。
 久しぶりに目にした啄木の歌だったが、年老いた今、こうやって読み返してみてもやはり興味が尽きないなあ、と、今日は本棚の前で改めてそう思った次第であった。 

2026・3・2