前山 光則
5月28日・29日は函館市に泊まった。
函館は清潔感があって好感が持てる町だ。ガイドブックには函館駅前の朝市がよく紹介されるが、それよりも街なかの自由市場の方が気さくな雰囲気があった。五稜郭の中をゆっくり散策し、函館文学館や旧金森洋物店などで西洋風な雰囲気にひたることができた。一方で、北島三郎記念館のサービス精神溢れるエンターテインメントは愉快であった。函館はまた、蕎麦屋や食堂のちょっとした料理がおいしかった。坂が多くて、坂の上から港や函館湾全体を眺めわたすとそこはかとなく旅情が湧く。それから、夜、函館山の頂上から街の夜景を観た時などは言葉をなくしたほどだ。
そんなにして暢気に観光客として巡りながら、石川啄木の短歌のことが思われた。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
啄木は明治40年5月に岩手県渋沢村から函館へやってくる。弱冠21歳ながら妻子を伴っており、函館商業会議所の臨時雇いになったり代用教員をしたり、あるいは地元新聞社の記者をしたりするが、その年の9月には小樽へ移る。翌年1月には釧路へ移住したものの、4月にはまた函館へ舞い戻る。かと思うとその月のうちに東京へ出る、というふうに北海道時代の生活の変化は目まぐるしい。ただ、宮崎郁雨など交友関係に恵まれていたようだ。そんな中で多数の歌を詠んでおり、「東海の……」などはここ函館の大森海岸での作だそうだ。北方の海辺で、男が泣き濡れて蟹と戯れているのだから、女々しいにも程があろう。ところが、若い頃に感応したのは言うまでもないこと、年を経て口ずさんでも胸にジンとくる。不思議な魅力ではないか。
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
この一首などは、かつて歌謡曲の作詞家をいたく刺激した。昭和32年に石原裕次郎がうたって大ヒットした「錆びたナイフ」がそれで、「砂山の砂を 指で掘ってたら/まっかに錆びた//ジャックナイフが 出て来たよ」、これは島野功緒著『昭和流行歌スキャンダル』(新人物文庫)によれば、作詞した萩原四朗自身が「あれは盗作ですよ」とカラカラ笑いながらパクリの事実を認めていた。やはり啄木の魅力がそうさせたのである。
5月30日は、東京へと発つ前に市電に乗って青柳町へ行ってみた。別に何の変哲もない住宅街だったが、ここの函館公園の中には啄木の歌碑があって、こう刻まれている。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢車の花
この甘やかさに惹かれて青柳町まで来てみたものの、なるほど大して特徴のない界隈であったか。少し先が谷地頭(やちがしら)といって市電の終点で、電停の先には啄木一族の墓があるそうだが、もう訪れるのは止した。代わりに電停から海へ歩いて行ったらすぐに海辺へ出て、曇り空の下、北東の方角へと浜が続いている。それが例の「東海の……」「いたく錆びし……」の大森浜だ。どうってことない、わりと普通の海浜だが、自分としてはそれでよろしい、充分である、と思った。