前山 光則
或るタウン誌に、「いい句見つけた」と題して秀句紹介の連載をしている。今度は井上微笑(いのうえ・びしょう)を取り上げようかな、とこの俳人の句集を開いたところ、面白い。昔の田舎の様子がよく分かるのだ。
貝吹いて昼餉知らする田植かな
雨乞や笠を連ねて嶽詣り
「貝吹いて」とあるのは法螺貝だろう。共同で行なう田植え作業、さあ昼飯にしようと法螺貝吹いて呼びかけたのである。明治35年の作で、あの頃はそのような光景が見られたわけだ。次の雨乞いの句は大正11年の作。「嶽」とは熊本県の人吉盆地の東奥に聳える市房山である。5合目あたりに市房神社が鎮座していて、球磨・人吉地方の人たちから崇(あが)められている。炎天下、みんなで笠をかぶって雨乞い祈願に行ったのだろう。他に「雨乞や古代踊りの鉦太鼓」との句もあり、賑やかで大がかりだ。だが、それだけ旱魃(かんばつ)がひどかったのだったろう。
井上微笑は慶応3年(1867)、福岡県秋月(現在、朝倉市)の生まれである。20代半ば頃から人吉盆地の湯前村に移り住んで役場書記をつとめた。以後、大正15年(1926)に亡くなるまでずっと田舎暮らしをするが、俳句に励むことだけは怠らなかった。句作を通じて夏目漱石や尾崎紅葉と親しく交流し、九州俳壇にあっては四天王の1人と目された程に良く知られた存在であった。
我が家は貧しけれども鮎の鮓
大根舟続く炭舟下り舟
「鮎の鮓」は、姿寿司であろう。明治39年の作で、ダムの全くなかったあの時代、球磨川は魚影が濃くて、貧しくとも鮎などふんだんに食べられたようだ。また、球磨川を大根舟や炭舟が下るのは、上流の物産を下流の町へ運んで売り捌いていたのである。微笑がこの句を詠んだのは明治40年だが、翌年には八代から人吉まで汽車が通じて球磨川の舟運は一気に衰退する。だからこれは、球磨川舟運の最後の光芒を伝える記録と言えよう。
焼酎に豆腐一丁やほととぎす
夕方、焼酎瓶に手を伸ばしながらこの句が目に入った。大正8年の作。焼酎の肴が、豆腐だけか。だけど当時の豆腐は味が濃くて、満足度も高かったろうなあ、とため息が出た。
俳句って、巧(たく)まずして昔の風俗を記録してくれている。味のあるスナップ写真みたいに時代を写し取っているなあ、と思った。この中から1句だけタウン誌に紹介するのだが、どれにしようか?迷ってしまう。