第108回 土手で旅情が湧く時

前山 光則

 ロンドンオリンピックが始まった。ついつい夜更かししてテレビ観戦するから、朝起きるのがつらい。でも、午前5時には起きて、涼しいうちに散歩する。よく行くのが、この連載コラム第58回「散歩の土手に謎三つ」で話題にした川土手だ。放置自転車は今はなく、カヌーの持ち主は最近になって判明した。
 歩いていると、土手下の、合歓(ねむ)の木が溝に影を落とす工合に枝をひろげているあたりでいつも牛蛙が鳴く。これは蟇(がま)みたいに大きな蛙で、名の通り「ブオーッ、ブオーッ」と牛みたいな声を出す。溝の水の中にいるのか、水辺の薮にひそんでいるのか、声はすれども姿を見せたことがない。それなのになぜ大きさが分かるかと言えば、ゲテモノを出す居酒屋へ行けば実物を見せてくれるのである。そうして、から揚げにしてくれる。
 この牛蛙の鳴くのを初めて聴いたのは、まだ20歳になる直前、埼玉県の浦和市の知人宅に遊びに行ったときであった。夜、あたりでえらく牛の声がするので、「この辺の牛は暗くなってから鳴くわけ?」と訊ねたら、あれは蛙の一種で、食べるとうまい、と教えてくれて、仰天したのだった。あのあたりは沼地が多くて、牛蛙が繁殖しているのだそうだった。やがて、誰かに連れられて東京は新橋のビヤホールで牛蛙のから揚げを初めて口にし、そのほっくりしたおいしさを知った。
 4年前に長野県から群馬へかけて一人旅をした折りには、群馬県館林市の城沼(じょうぬま)で牛蛙が鳴いていた。そのときはまっ昼間だったが、入梅したばかりの頃で、どんより曇っていた。自然主義作家・田山花袋の生まれ育ったあたりを見て歩いているうちに、ひろびろとした城沼へ出たのである。一人旅の気楽さの裏には心細さが貼りついていたが、そんなとき「ブオーッ、ブオーッ」と聴こえてくる。若い頃に浦和で初めて牛蛙の声を耳にしたときのことが蘇り、ああここも関東平野なのだよなあ、と実感したのだった。
 そんなわけで、散歩中に牛蛙の声が響くと旅情に似たものが湧く。土手を歩くたびに旅気分になるのもどうかと思うものの、でも高校卒業以来ずっと故郷を離れて生活してきたのだ。言うなれば人生は旅が続いているようなもので……などと、うそぶきたくもなる。
 近頃、友人たちと酒を呑んでいて何かの拍子に牛蛙のことが話題になったから「あの声聴くと、埼玉や群馬あたりが思い浮かぶ」と呟いたら、「牛蛙は大正時代にアメリカから来て、全国に広まったとげなもんな」と一人が応じた。彼は、あんなのはどこにでもいる、と言いたいのだ。うん、確かに牛蛙はアメリカ渡来で、日本のあちこちにいるだろう。でも、自分の中ではあの「ブオーッ、ブオーッ」という声のルーツは関東平野の中のしっとりした沼地だ。それも、曇天の下、うす暗い感じの時でなくてはサマにならない気がする。

▲土手下の溝。きれいな水ではないが、鯉や鮒、鰻、鯰、亀などがいる。水辺で翡翠(カワセミ)を見かけることもある。合歓の木には、今、ピンクのかわいらしい花が咲いている

▲城沼。東西4キロメートル弱、南北200メートルの細長い沼で、昔の館林城はこれを天然の堀としていたのだという。内水面漁業も盛んなようだ(平成20年6月5日撮影)