前山 光則
いつもこの連載コラムを読んでくれている友人が、電話で言ってきた。「前回の話は、阿蘇の往生岳の別名がドベン岳で、その意味も分かった。しかし、結局、ミコトと鬼八がどうしたってわけや?」――うむ、そうそう、そこまで話が行っていなかったのであった。
荒木精之編『肥後の民話』によれば、ある日、タケイワタツノミコトは鬼八を連れて、往生岳から的石というところへ向けて矢を射ておられた。鬼八はその弓を拾いに行く役をしていたが、九十九回まで行ったところで疲れて面倒になり、拾った矢を往生岳へ向けて蹴返した。するとミコトは怒って、鬼八を追いかけた。矢部というところまで行って捕まえ、殺そうとして押さえつけたのだが、すると鬼八は屁をひった。その屁に面食らってミコトの手が緩んだ隙に、鬼八は逃げる。高千穂方面まで行って、五ヶ瀬川を挟んで大岩を投げたり、投げ返したりして、大立ち回りとなった。だが、やがてミコトが鬼八を生け捕りにし、その首を斬った。ところが、首がすぐに元のところに継がる。手や足を斬れば、それもまた継がる。結局、手足をバラバラに斬り離して、いちいちを離れた場所へお埋めになった。鬼八の胴体を埋めた場所が高千穂の鬼八墓だそうで、手足はあちこちに埋めたのだが、それらは鬼塚と呼ばれるのだという。
ところが、鬼八の首はミコトから刎ねられた後、天に舞い上がった。鬼八の怨霊はずっと祟り、夏の暑いさなかにも天から霜を降らせるのであった。霜は耕地の作物をみんな枯らせてしまい、阿蘇の人びとの多くが食う物もなくなった。これでは困るので、ミコトは、「鬼八の霊よ、阿蘇谷のまん中におまつりするから下りてきてくれ」と申された。「そこで鬼八の霊が天から下りてきて、いまの霜宮にまつられたといいます」――『肥後の民話』の中の一編「鬼八の首」は、そのように締めくくられている。確かに阿蘇神社の近く役犬原(やくいんばる)に霜宮神社が存在する。これはつまり、その神社の由来に関する伝承なのである。「……と、まあ、そういうお話なのよね」と友人に説明してあげた。
ついでに、やはり荒木精之が編集した『熊本の伝説』に載っていることも伝えた。それによると、鬼八がタケイワタツノミコトに押さえつけられた際にひった屁、これは音がひどいし、臭かった。しかも八回にわたってひったので、それが「矢部」という地名の由来になっているとのこと。友人は「えらく臭い話だなあ」と電話先で呆れたような声を出した。いや、ほんとにそうだ。もともとミコトが自らのドベン(睾丸)丸出しで山のとっぺんに居座ることや、小便も垂れ流しにしたから往生岳の幾筋かのヒダはそれが流れ出た跡だとかいうのも、いかにも野性的だ。それに加えて八発の凄い屁。いやはや、民衆の伝承は飾り気も何もなくて、まことに破天荒だ。