第330回 若い頃の歌、年とってからの歌

前山 光則

 前回は、与謝野晶子が自身の若い頃の歌集『乱れ髪』について晩年にはほとんど全否定に近い状態だったことを話題にした。そして、そのことについて、しかし、さて、なあ、などと与謝野晶子の苛烈さに「?」印をつけたくなっていた。
 でも、あれから考えてみて、なんだか分かるような気もしてきている。実は、最近、若山牧水の歌について思い返してみるのだが、この人の場合も一般に話題になるのはきわめて若い頃のものばかりである。
 
 
 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 けふもまたこころの鉦をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く
 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな
 
 
 明治41年(1908)刊の第1歌集『海の声』から引いてみたが、刊行当時、作者は早稲田大学卒業直後で、まだ満22歳であった。ということは、収録されているのはすべて大学在学中の作ということになる。若い者としての高揚も感傷も見事に言い表されており、牧水の歌は広く愛唱されてきた。とりわけ象徴的なのは「けふもまた……」である。「あくがれ」つまり「あくがる」とは、「魂(あく)」が「離る(がる)」、すなわち何者かに心が揺り動かされ、自らの魂が自分から離れていく状態の謂(い)いである。青春時代のど真ん中、どこかに心満たされるものはないか、あるはずだと憧れて止まぬ熱い心情が作者のうちに満ち溢れ、落ち着かぬ。この歌は、だから、当然のことながら次の「幾山河……」の歌を生むわけで、寂しさの無くなる国を求めて行けども進めども寂しさがなくならぬ、というのである。若者の満たされぬ思いがこのように詠まれて、たちまち全国へ広まったし、現在でも人気のある歌だ。牧水は日本人の「青春」を三十一文字にぴしゃりと表現し得た、いわば天才であった。
 園田小枝子(そのだ・さえこ)との恋愛をうたった作品も、同歌集には頻出する。
 
 
 海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る
 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
 われら両人(ふたり)相添うて立つ一点に四方(よも)のしじまの吸はるるを聴け
 
 
 まだ両人が相思相愛、熱烈に愛し合っていた頃の歌である。中でも、「海哀し……」「山を見よ……」の2首は一般にもわりと知られているのではなかろうか。小枝子への愛は、牧水の歌に生命を吹き込み、大いに輝きを与えてくれた。だが、年上の女性とのこの恋愛も、やがては破局を迎える。小枝子は別の男の許へと去るのである。明治44年(1911)刊の第4歌集『路上』に「わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな」などという歌がある。明治43年6月の作だが、この時期にはもう恋愛がかなりきびしいかたちで破れつつあった。さらに、同年9月から11月半ばまで長野県小諸に滞在した。その折りの歌の一つに、
 
 
 かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
 
 
 これは単に信州の秋の風情をうたったものではない。この場合の「ほろびしもの」は、自身と小枝子との愛がすでに過去のこととなってしまったという苦い自覚に裏打ちされている。絶唱といえよう。
 こういうふうな牧水の20代前半の青春歌、わたし自身は高校時代に愛読した覚えがある。しかし、やがて離れていき、長らく遠ざかり、60歳になる少し前から集中的に再読した。すると、なんというか、この人の若い時期の作品は良い歌揃いであると再認識できたものの、心の内で距離感が生じてしまっているのを否めなかった。牧水にのめり込んだ時期を懐かしく思い出したが、もはやそこへは戻れない。何というか、読んでいて、若さの過剰さに気恥ずかしくなってしまう。寂しいほどであった。これは、与謝野晶子の『乱れ髪』にも同質のものが詰まっているわけで、やはり青春歌というものは恥ずかしげもない、あからさまな熱情の噴出なのである。
 だが、牧水の人生後半の作、たとえば第14歌集『山桜の歌』(大正12年・刊)、
 
 
うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
 湯を揉むとうたへる唄は病人が(やまうど)がいのちをかけしひとすぢの唄
 先生のあたまの禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ
 
 
 大正11年(1922)の春に伊豆半島の湯ヶ島温泉に滞在した際、山桜の風情を集中的に詠んでおり、「うすべにに……」はそのうちの1首である。この繊細で落ち着いた自然詠、見事と評するしかなかろう。2首目は、同年の秋、群馬県の草津温泉を旅した折りに湯治に来ている人たちが湯揉みする姿を見て、病いを治そうと努める姿に感じ入っている。あるいは、3首目は、草津の近くの村の分教場で老教師が子どもたちを教えているのを見て、こよなく心を寄せている。2首とも、なかなか人間味のある、読者をしみじみとした思いに浸らせてくれる歌ではなかろうか。
 あるいは、没後の昭和13年(1938)に刊行された第15歌集『黒松』になると最晩年の時期の作品に触れることができる。
 
 
 鮎焼きて母はおはしきゆめみての後(のち)もうしろでありありと見ゆ
 鉄瓶を二つ炉に置き心やすしひとつお茶の湯ひとつ燗の湯
 夜為事(よしごと)のあとを労(つか)れて飲む酒のつくづくうまし眠りつつ飲む
 
 
 大正14年(1925)とか15年頃の作で、したがって牧水は40歳になったばかりである。母への思いの熱さが詠われ、そして自身のことを詠む際にもどのような時に寛ぎを覚えるかが表現されている。生活をしつづけ、生活の中から湧いた思いをじっくりと、しっかりと定着させている歌人がここにいるのだな、と納得することができる。
 さらにわたしは、次の歌に感心する。
 
 
 おとなりの寅おぢやんに物申す長く長く生きてお酒のみませうよ
 
 
 大正13年の春に牧水は久しぶりに故郷の宮崎県東郷村(現在の日向市東郷町)坪谷に帰省するが、その時に詠んだ歌の一つである。幼い頃にかわいがってくれて、今は年老いてしまっている故郷の老人へ、これはまことに心の籠もった呼びかけである。牧水は他者への思いやりの情が実に厚い人だったのだ。牧水は、この歌を「戯れ歌」と称している。死後、関係者によって編まれた歌集『黒松』にも、なぜか収録されていない。だが、牧水の秀歌の一つに、それも上位の方へ入れてあげる資格充分なのではなかろうか。
 牧水は、与謝野晶子同様に青春時代の作品が広くあまねく愛唱されながら、年齢を経てからの佳作は忘れられがちである。だが、実際には、今もこうして辿ってみれば分かるように人間味溢れる秀作を詠みつづけた。ただ、与謝野晶子が自身の『乱れ髪』を苛烈に否定したのに比して、牧水はそうはしていない。この両者の違いは、何に起因するだろうか。 一つ言えるのは、岩波文庫の『与謝野晶子歌集』は晶子が満59歳の時に編まれている。当時、60歳に近い年齢といえば、充分に老齢である。晶子は、年を経るとともに人間的に成熟を果たしていったろう。老境に達して、若い頃を振り返れば、エネルギーには満ちていたもののいかにも未熟であった自身が『乱れ髪』には丸見えだと痛感されたのではないだろうか。これに対して牧水は、先の「おとなりの……」の歌を詠んだ大正13年は、まだ39歳であった。そして、昭和3年(1928)9月に残念ながら43歳で亡くなる。牧水は「中年」には達していたろうが、「老年」とか「晩年」と称せるような域には達していなかった、与謝野晶子のように自身の若い頃を厳しく見渡し、客観的評価を下すにはまだ至っていなかった、ということであったろうか。もし牧水がもう少しせめて60歳代まで生き永らえていたら、晶子同様のことをやっていたかも知れない。
 いや、どうかな……。
 与謝野晶子・牧水の双方の歌を味わいつつ、あれやこれやと考えさせられたのだった。
 
 
 

▲若山牧水生家。宮崎県日向市東郷町坪谷。あたりは海辺から10数キロのところに展開する小盆地であり、生家は昔の坪谷村の入り口に位置している