前山 光則
今、あちこちで桜が咲いている。山桜が早くて、もうすでに散りかかっている。入れ替わりみたいにソメイヨシノが開花し、四分咲き、七分咲きといった状態だ。
しかし、落ち着かない春である。新型コロナウイルスが、はじめ中国の方で話題になった。テレビや新聞でニュースを見ているうちに日本へも到来したし、世界中に広がっている。学校が臨時休校になり、大相撲春場所が無観客で行われたり、春の選抜高校野球大会が中止、オリンピック開催についても懸念される等々、大変なことだ。わたしの住んでいる熊本県八代市ではまだ感染者は出ていないが、街へ出るとマスクした人が目立って、みんな新型コロナウイルスを気にしている。スーパーマーケットや薬局ではマスクやティッシュペーパー、洗浄綿等が品切れである。
長野浩典著『川の中の美しい島・輪中《熊本藩豊後鶴崎からみた世界》』を読んだ。わたしとしては、「輪中」というだけで興味深かった。普通、この語からは愛知県の長良川・揖斐川・木曽川等が流れる濃尾平野しか思い浮かばない。中学や高校の頃に地理の授業で教わったからである。だが、この本の舞台は「大分県大分市東部、一級河川大野川の下流」である。そんなところに「輪中」があるのか、と新鮮な驚きを覚えた。
そこらは大野川によって形成された中洲であり、「高田輪中」と呼ばれるそうだ。中洲の周囲は堤防に囲まれている。南北2.7キロメートル、東西1.4キロメートルというから、わたしの暮らす球磨川河口域の「三角州」麦島とあまり変わらない広さだ。著者は「なぜ人が輪中に住み続けるのだろう」と素朴な疑問を持った、それが高田輪中について研究する出発点ともなったようである。
中洲であるから、高田輪中は水害によく見舞われる。だからといって水に不自由しないかといえば、輪中の内側は川よりも水位が高いため農業用水を取り入れるには不便であり、水田はなかった。昭和の初期までは、この地の主食は粟や裸麦やさつまいもなどで、つまり畑作地帯だったわけだ。なるほど、これではなぜ高田輪中に人が住み続けるのか、と疑問に思うのは当然だろう。
だが、この本は輪中周辺が近世においては熊本藩領であり、鶴崎に港を持っていた、と教えてくれる。そうか、あのあたりは港として適していたのである。実は、わたしなどは、大分県の大野川の河口あたりが熊本藩の飛び地であったことすら知らなかった。なんでも、江戸時代、熊本藩は大分・海部(あまべ)・直入(なおいり)の三郡に飛び地を持っていたのだという。中でも大野川の河口、高田輪中の鶴崎は、良港として栄えたわけである。しかも、このあたりの便利さの恩恵にあずかったのは単に熊本藩だけでなかった。著者は、こう説明している。
「このように高田輪中周辺に諸藩や幕府が領地を得ているのは、この大野川・乙津川河口付近に瀬戸内海へ出るための良港がいくつも位置していたからである」
そういうふうな高田輪中周辺、とにかくこの輪中の内側では畑作が盛んで、特に牛蒡は半ばブランド化し、遠く大阪方面へまで移出されていたそうである。また、輪中内には刀鍛冶・野鍛冶といった鍛冶業が多かった。しかも、刀鍛冶はもとはキリシタンであったらしく、転宗していたものの代々「キリシタン類続(族)」と呼ばれて取り調べや弾圧の対象となっていたらしい。この本の後半では、そのキリシタンのことが詳しく語られている。豊後方面のキリシタンが壊滅的な弾圧を受けるのは、1659年(万治元)のいわゆる「豊後くずれ」によってであるが、その折りの発端となったのは高田輪中だそうだ。
著者によれば、長崎から豊後の府内、臼杵までの北九州北部を横断する地域について「キリシタン・ベルト」という呼び方がある。そのベルト内にキリスト教がよく普及していた、というわけである。1670年(元禄6)の『肥後讀史總覧』に記された熊本藩内キリシタン類族名簿によれば、このベルト内の熊本藩内キリシタン類族の総数は778名、そのうち大分郡の308名が突出している。ついで、八代町の135名である。海部郡を加えると、熊本藩内のキリシタン類族の約半数は現在の大分県域にいたことになる。
いや、大分郡の数の多さもさることながら、「八代町の135名」、この数字にも注目させられた。わたしが住む肥後の八代、ここはかつてこのようにもキリシタン信仰が盛んだったのか。そういえば、わたしの住む家のすぐ傍にある児童公園内には八代史談会によって「キリシタン殉教の跡」と銘した木製の標柱が建てられている。500メートルほど行ったら小西行長が手がけた中世麦島城の本丸天守跡であるが、そのすぐ下の広くなったところには「キリシタン殉教者列福公園」がある。思えば、わが八代はこうした歴史を持つ土地なのだ。溜め息が出たほどであった。
読後、午後の3時頃であったか、散歩に出た。外で過ごすにはちょうど良いくらいの穏やかな天気であり、これが散歩せずにいられようか。春風に吹かれながら「キリシタン殉教の跡」の横を通り、麦島城址の本丸天守跡に近いあたりまで歩いた。無論、キリシタン殉教者列福公園の横も通るのである。何カ所かでソメイヨシノが咲き初めている。
わたしの住む一帯は「麦島」と呼ばれて、球磨川本流とその分流である南川・前川に挟まれ、さらに最も裾にあたるところは不知火海に面しているため、いわゆる「三角州」となっている。川の中の「島」である。ただ、厳密にいえば、江戸時代のいつ頃までか知らないが、三角州にはなっていなかった。麦島の北側は深い入り江をなしており、「徳淵(とくぶち)の津(つ)」と呼ばれていた。天然の良港として活用されていたのだが、そこをさらに便利にすべく入り江の奥を切り開いて球磨川と繋げたため、以来、現在のように「三角州」となってしまったのだという。球磨川の分流と化した徳淵の津の方は、「前川」との名がついている。
さて、麦島城址本丸天守跡まで行って、それからまた南の方へ3、4分巡ると球磨川の本流へ出る。すると、川の手前に昔からの人家がかたまる一帯があって、そこらは敷地が石垣で高くしてある。水害から家を守るための石垣だ。もっとも、ここらは「輪中」ではない。たぶん、かつての二の丸の一番端っこかそのすぐ外側あたりに位置しているのではなかろうか。あるいは、堀割が通っていたあたりかも知れず、よく分からない。麦島城址は1619年(元和元)の大地震で崩壊したり、加藤氏によって廃城とされたりした。現在は辺り一帯すっかり宅地化しているため、往時を偲ぶことはなかなか難しいのである。それにしても「三角州」の中の、石垣に守られた旧家。なんだか、『川の中の美しい島・輪中《熊本藩豊後鶴崎からみた世界》』を読み終えた今、その余韻を愉しむには恰好の散歩コースであった。
近くで、鶯がケキョ、ケキョと鳴いた。まるでわたしのために囀ってくれているかのような、嬉しい気分だった。
ちなみに、この麦島という「三角州」に暮らすようになって早や40年を数えるが、川と海とに囲まれた「三角州」で暮らす気分は悪くない。わたしは自分の『ていねいに生きて行くんだ《本のある生活》』(弦書房)に収めた一文「はじめての佃」の中で、吉本隆明の詩「佃渡しで」を一部分引用した。
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった
そして、この「砦のような感じ」について「わたしも球磨川河口の三角州内に住んでいるから共感する」と記した。長野浩典氏は『川の中の美しい島・輪中《熊本藩豊後鶴崎からみた世界》』のあとがきでこの「はじめての佃」について紹介し「佃渡しで」も引用した上で、「これを読んだとき筆者は『ああそうだったのか、砦だったのか』と思った」と感想を述べてくれている。実際、川と海とに囲まれたこの「麦島」内に住んでいると、対岸から距離を置いた感じであり、かといって著しく離れているのではない。ほどほどの距たりというのは、妙に落ち着くのである。正直、そうだなあと思う。
本来は厳密な意味で言う三角州ではないところであるが、麦島に暮らしていてこのような気分でいられるのである。これに対して、本物の三角州、「高田輪中」と呼ばれる大分県の大野川の河口辺り。「なぜ人が輪中に住み続けるのだろう」との著者の素朴で本質的な興味関心は他人事でなく、わたしの胸にも迫ってくる。高田輪中に実際に行って、歩いてみたいもんだ――散歩しながらそのような思いであった。
ぶらぶらと道を行きながら、新型コロナ・ウイルスのことは忘れてしまっていた。