第389回 7月4日の人吉へ

前山光則

 7月4日は朝からどんより曇って、時折り小雨がパラついた。しかし、天気は気にせず、友人2人につきあってもらって人吉方面へ出かけた。昨年のこの日、未曾有の大水害であった。あれから早くも1年経ったのだなあ、と感慨深いものがあるので、区切り目となる4日は少しだけでも自分のふるさとで過ごしたかった。
 行く途中、時折り雨がザッと降ったが、やがて晴れてきた。
 高速道路で人吉へ入り、まず人吉市下新町の球磨川下り発船場がリニューアルできたというので立ち寄ってみた。「HASSENBA」とアルファベットの看板が掲げられて、小じゃれた姿である。人がたくさん押しかけていた。建物の中に入ると、受付コーナーや売店だけでなくカフェレストランまでも併設され、若い層がテーブルについておいしそうな料理を食べている。こうなると、舟に乗る観光客だけでなく食事したいだけという人も訪れることになるので、とても良いのではないだろうか。
 川下りの舟は水害で流されてしまったりしたが、そのうち二艘は天草まで行っていた。最近、戻されて来たのだというから喜ばしいことだ。肝腎の川下りは、さて、いつ頃から再開できるのであろうか。 
 片隅に電動式のレンタサイクルが何台も並んでいたので、友人が喜んで、
「おお、ここにこれを借りに来て、市内を乗って回るのも愉しいだろうな」
 と言った。そうしたら、若い男性係員が、
「予約してもらうことになりますし」
 などと説明しはじめたので、わたしが、
「なーんだ、いきなり来て、その場で借りることはできないのか」
 などとがっかりしてみせたりして、野次馬根性丸出しの会話となった。 
 建物を抜けて球磨川へ出てみた。対岸にはこんもり茂った人吉城址が見える。城址の左手に木山の渕が水を湛えて、穏やかな風景だ。
「あそこは木山の渕と言われるくらいだから、かつては水深がずいぶんあった。しかしなあ、今は、すっかり土砂が積もって浅くなって」
 友人たちに説明してやりながら、なんだか寂しかった。
 発船場を出て、街の真ん中の九日町・紺屋町界隈へ移動。そしたら、街の通りを仕切って出店がズラリと並び、食べ物・飲み物・諸雑貨が売られており、えらく人で混んでいた。少し離れた空き地に車を停めさせてもらって見物したが、もうすでに午前11時過ぎ。空は晴れているものの、湿度が高い。蒸し暑くてしかたなかった。
 少年の頃から見知っている1歳上の男性に出会わしたので挨拶したら、
「おお、来とったや。この頃、どぎゃんしとる?」
「はい、どうにかこうにか」
 と答えたら、その人は、
「あんたの本はな、俺あ、何冊も読ませてもろうたとばい」
 と嬉しそうな顔つき。その人の自宅は1階が全部水に浸かってしまったのだそうだ。そのように被災して1年、いたって元気そうなのは何よりである。
 九日町の道ばたで感慨深そうにあたりを見まわすご婦人がいたので、声をかけてみたら、自宅がすぐ近くにあり、1年前のこの日、たいへんな目に遭ったそうだ。九日町通りは、すぐ裏手が球磨川である。朝、見るみるうちに水が押し寄せて来て、家は水没し、
「4メートル80センチでした」
 とおっしゃる。家の1階は完全に水に浸かった。2階に逃れたが危うくなっていたところ、救助隊が来てくれたそうであった。
 お喋りしているうちに、ご婦人はわたしと同年齢だと判明した。わたしが、
「ぼくは、すぐそこの紺屋町に小学5年まで居たですが」
 そう言ったら、
「はあ、そぎゃんですか。すんません、存知上げずに。あたしは、よそから嫁入ってきているものですから」
 とおっしゃる。それでも、付近の同級生やら知り合いの名を挙げてみたら、良くご存じである。そして、どこもかしこも被害甚大で、詳しく聞くのが気の毒なくらいであった。
 そして、青井阿蘇神社方面へ歩いていたら、球磨川と支流・山田川の合流点付近でW氏が自宅の前に立っておられるのを見かけた。もう九十歳を超えた方だが、かねがね元気な人である。しかし、久しぶりに会ってみると、だいぶん窶(やつ)れ気味だ。そこらは、山田川が球磨川の勢いに押されてしまって逆流し、周囲に溢れてしまった区域である。御自宅は2階建てであるが、奥様が1階で溺れかけた。W氏が必死で2階へ導いたので、危うく助かったそうであった。
「その後も、避難所には行きませんでした。2階は水にはやられなかったので、ずっと2階で過ごしましたたい」
 とのことであった。
 青井阿蘇神社の裏手にある瀟洒な喫茶店で昼食をとり、すぐ近く人吉駅前の仮設商店街「モゾカ商店街」へも顔を出してみた。ここは今まで何度も来てみているので、顔なじみになってしまった。そして、いつもよりずっと人が多くて賑やかで、やはり活気があるのは良いなあ、と、率直に嬉しかった。
 郊外の被災者用仮設住宅には親戚が入居しているが、つい最近訪ねて行って様子を確かめたばかりだったので、この日はもう会わぬこととした。
 そして、帰りは球磨川沿いに国道219号線を辿った。立ち寄りたい場所が2カ所あったのだ。一つは、球磨村との境い目近くの中神温泉であった。ここは古くからある共同浴場で、中神温泉組合が運営している。実は前回人吉へ遊びに行った時に覗いてみたが、先を急いでいたために入浴するまでの時間的余裕がなかった。今回はまだ日が高くて入浴するには暑すぎたが、めったにない機会だからと行ってみたのであった。いや、だが、夕方にはまだ時間がだいぶんあるというのに、近在の人たちが来ておられた。特にご婦人方、それもお婆ちゃんたちが来ている。
 入浴料200円を番台に置いて中へ入り、衣服を脱ぎ捨ててズンブリと湯槽に身を沈める。ぬるめの湯がやさしく身を包んでくれて、なんだか幸せな気分だ。女湯の方からは賑やかな声がしており、互いに世間話が弾んでいるふうだ。ここは、小さい頃、近くに母の知り合いが美容院をしていたのでよく遊びに連れられて来て、ついでにいつも浸かっていた。しかしなあ、こんなにも心地良い湯であったかな、と、自分の幼時の記憶の不確かさが情けない。
 男湯には先客が一人、よく見たらこないだ立ち寄った際に中から出てきた方であった。
「いや、今回はどうしても浸かりたかったですたい」
 と友人が話しかけたら、覚えていて下さった。そこでしばらく雑談が続いたのであるが、見上げれば天井がすごく高い。5メートル以上はあるのではなかろうか。これだけ浴場と天井との間が広がっていれば、気持ちが良い。
「しかしですな、あん時は、ここ、全部浸かってしもうたとですばい」
 とおっしゃる。そうなのか。天井を見上げたまま、溜め息が出てしまった。ここらは、球磨川からわずか2、3百メートルほどしか離れていない田園の中に位置する。あの日、線状降水帯からの凄まじい土砂降りによってあたりは水浸しになったのみならず、グングン水かさが増し、濁水はついに堤防を越えてしまった。つまり、球磨川からの水が押し寄せる以前に、堤防の内側から溢れ出てしまったのだという。
「水の退いた後の片付けが、ですなあ」
 先客氏は遠いところを眺め渡すような目でそうおっしゃる。この風呂場の中いっぱいにヘドロが詰まってしまい、それを共同浴場組合員の皆が頑張って掻き出し、きれいな状態に戻すまで大変な労苦であったのだという。
「泉源が詰まってしまわんじゃったからですな、それが良かったですたい」
 そういえば、球磨・人吉内の数ある温泉の中で、温泉の井戸がすっかりヘドロで詰まってしまい、しばらくの間使用不可能というケースがいくつか見られたそうだ。そうしたところに比べれば、ここは幸いであったか。
 中神温泉を出てからは、球磨村一勝地で知り合いの焼酎醸造元へちょっとだけ顔を出してみた。建物はまだ復旧できていないものの、元気な様子であった。
 国道219号線は、途中で通行止めのところもあるので、その部分は県道を通らなくてはならない。また、肥薩線がメチャメチャになっているのだが、場所によっては線路にあたる部分を道路として仮舗装を施し、車の通行ができるようにしてある。そういうところも走って八代を目指した。
 そして、もう一つぜひ顔出ししてみたかったのが、八代市坂本町の「道の駅」であった。ここも球磨川べりにあるためどっぷりと浸かってしまい、ずっと休業していたが、最近になって営業再開にこぎ着けた。加えて、道の駅の広い駐車場を利用して坂本町の中の被災した商店や事業所が入れる「さかもと復興商店街」ができあがったので、これも見ておきたかった。
 まず道の駅で買いものをしたが、坂本町で採れた野菜が売ってあるので見てみたら、30センチほどもあるでかくて新鮮な胡瓜が3本でたったの100円だ。なんだか、100円玉を差し出すのが気の毒なくらいであった。そして、駐車場の「さかもと復興商店街」の方へ顔を出してみたら、9店舗が入っているのだそうだ。休憩所のようになっているコーナーに顔なじみが3人来ていたので、嬉しかった。その中には、なんとまあ、人吉在住の青年K君もいた。
「おや、ま、久しぶりなあ」
 と声をかけたら、
「お元気そうですね」
「うん、まあ、一応、生きとるよ」
 かつてわたしの実家が彼の家のすぐ近所にあった。だから、気さくに言葉を交わし合えるのである。
 熊本から手伝いに来たという若い女性がおいしいコーヒーを淹れてくれて、嬉しかった。しかし、コーヒーを啜りながらK君が言ったことは気になる。
「いやあ、今日はここに来て、愉しい」
「うん、俺も、だな。あんたに久しぶりに会えたし」
「はい、ぼくも」
 と言った後、彼がこう呟いたのである。
「ここに来たら、皆さん一つにまとまって頑張ってらっしゃる。人吉と、違うなあ」
「違う?」
 よく分からなかったのでわたしは首を傾げたが、彼は、
「人吉では、被災した人と被災しなかった人とでは、温度差がだいぶん違うとですよ」
 と言った。
「だいぶん、違う?」
「はい……」
 K君は、しばらく沈黙した。それから先を具体的に聞き出したかったが、みんなで賑やかにやっているうちに他の話題へ移ってしまった。またわたし自身が、なんとなく躊躇した。被災した人と、そうでない人との間の、温度差。それは、自ずから生じるものではあるのだろうが、実際にそこに住んでいると、物事を話し合ったり決めたりする際に意見の隔たりや行動の違いがどうしても生じるのであろう。今まであまり意識せず、思いやることもしていなかった、迂闊であった、と、K君の呟きには反省させられた。
 それにしても、1年前の未曾有の大水害いわゆる「熊本豪雨」は、球磨川流域を中心にして死者67人・行方不明2人、住宅の全壊・半壊は約7400棟という大変な被害が生じた。今年6月末現在で、15市町村の3675(1611世帯)がまだ仮設住宅住まいを続けている。JR肥薩線は到る所でグチャグチャに壊れた状態のまま、まだ再建策がまったく示されていない。完全復旧はいつのことになるだろうか。あるいは、最悪の場合、廃線となってしまうか。
 なんか、色んなものがいっぱい詰まったいちにちだったような気がするなあ。そんな思いで家に帰り着いた。
 
 
 

▲球磨川下り発船場 新しくなって、観光復興への意欲が感じられた。建物のすぐ裏手が球磨川である。

 
 

▲町なかの出店コーナー このへんは商店街の真ん中にあたる。昼前で、すでにだいぶん暑くなっていたが、人でいっぱいだった。

 

▲中神温泉 田園の中の共同浴場だ。付近の住民たちの共同管理で運営されている。