第392回 百日咳の思い出

前山光則

 先日、ある必要があって病院でいくつかの検査をしてもらったのだが、その中のX線検査つまりレントゲン撮影の後で、お医者さんから「胸に影がありますね」と言われた。「はい、そうです」と答えておいた。
 小学2年生、あるいは3年生の頃、「百日咳」という病気にかかってしまったことがある。その時の痕のようなものがずっとあなたの肺の中には遺っているのですよ、と何年か前に別な病院で説明を受けたことがある。
 今、世界中で新型コロナウイルスが猛威を奮っているが、百日咳というのも数ある感染症の内の一つだそうだ。百日咳菌というものによる「急性気道感染症」で、名前のとおり激しい咳がそれこそ100日ほども続くことからこの名があるとのこと。実際、そうであった。咳が出続けるのだ。それも、尋常でない。ゼーゼー、コンコンと咳き込んで、苦しくなってくる。咳をしすぎて、吐き気まで催すことがあったくらいだ。これがなかなか治らないのだから、いやになるくらい辛い毎日だった。病院に行って注射してもらったり、薬を飲み続けたりしたが、いっこうに良くならない。咳がひどくて、学校を休んでしまうこともしばしばであった。
 ただ、百日咳という感染症は天然痘やコレラやスペイン風邪などと比べるとさほど知られていない。長野浩典氏の好著『感染症と日本人』(弦書房)にも、確か話題にはなっていなかったと思う。
 さて、その百日咳が続いている間、わが両親はどう対応したかというと、病院に連れて行っても埒があかぬ。苦しむわが子を見るに忍びない日々であったのだろうと思う。ある日、父は自分の出身地・球磨郡山江村へわたしを連れて行った。人吉市の家の近くの停留所からバスに乗って、北の方へ30分ほど。バス停からは、どのくらいの時間であったか、歩かされた。咳き込みながらバスに乗ったり、歩いたりで、きつくて仕方なかった。そして連れられて行ったのが、高寺院(たかてらいん)という真言宗の古刹であった。なんでも、12世紀末頃に創建されたのだという。自分の記憶では、その高寺院で坊さんが長々と経を唱えた後、わたしの手の甲になにやら訳の分からぬ病魔退散のための漢字を墨書してくれた。ただ、後年、父にその思い出を喋ったところ、
「うんにゃ、そらあ、違う。高寺院の横に祈祷師さんが住んでおったから、そこに行ってお祈りしてもろうたとゾ」
 ということであった。自分の記憶と父の説明が食い違うわけだが、しかしとにかくわが親は病気を神仏の力によって退散させたい、と謀ったのであった。
 もっとも、病気は快方へは向かわず、相変わらずゼーゼー、コンコンの日々が続いた。
 そしたら、次に父はわたしを高塚山(たかつかやま)というところへ連れて行った。そこは、人吉市の中心部からバスで南へ約40分ほどもかかったか。鹿児島県大口市(現在の伊佐市)へと越える峠道の途中で、バスを下りる。そこから山道を頂上へと辿るのである。高塚山は、標高約623.9メートルだから、たいして高い山ではない。しかし、登り口あたりはせいぜい150メートル前後の標高でしかないので、そこから山に入って頂上を目指すのは決して楽ではない。まして、少年のわたしは相変わらずゼーゼー、コンコン状態であった。きつくて、つらくて、泣きたいほどしんどかった。
 道中、おおむね歩きづらい踏み分け道が続いたが、一部分、木馬道(きんまみち)もあって、そこだけはわりと楽であった。これは、山から伐りだした木材を運ぶための、大型の橇(そり)を走らせる道だ。山道に細い丸太が算盤状に敷かれており、その上を橇が滑っていく仕組みだ。屈強の山師さんがこの橇を牛に牽かせて、
「ソイ、ソイソイ!」
 と大声を上げて山を下って行く。たいへんな労働で、危険も多い仕事である。木馬道を辿っていて、たまたま行き合わせた。しばらく木馬牽きの様子を見物したが、なかなかに迫力あるシーンだったな、と、今でもその様子は鮮やかに甦ってくる。
 頂上までどのくらいかかったか、まるで覚えていない。着いた時、ヘトヘトになっていた。高塚神社と称される小祠が頂上にあって、父と二人でお詣りした。ここに参拝すれば百日咳も良くなる、と父は考えたらしいのだ。他にも参拝者が何組も来ていたが、その人たちはどのような願い事をしに来ていたのであったろうか。ただ、子どものわたしは、そんなことよりも腹が減っていて、早く昼飯にありつきたかった。だから、弁当の中身ははっきりと覚えている。すなわち、高菜で巻いた麦飯混じりのお握りと、おかずは塩鯖の切り身を焼いたものであった。すごくおいしかったが、後でひどく喉が渇いた。
 食べていたら、近くで休憩していたどこかのおじさんが話しかけてくれた。そして、自分の弁当箱から、
「食べんね」
 と、大きめの卵焼きを分けてくれたのは、ものすごく嬉しかった。わが家では卵焼きなどまったく目にすることがなかったから、これは憧れの御馳走であったのだ。実に忘れられない、ありがたい思い出である。
 ただ、百日咳は、高塚神社参拝の後も、すぐには快方には向かわなかった。
 というか、やはり「百日咳」とはよくぞ言ったものであった。ゼーゼー、コンコン状態がそれこそ100日ほども長く続いたが、続く内には少しずつ快方に向かったのではあった。小学2年生か3年生の時にこの病気に悩まされた後、4年生とか5年生になったら、ウソみたいに体が丈夫になり、風邪一つひかない子になって行った。
 だから、あの百日咳という感染症にかかってしまい、父に連れられて祈祷してもらったり高塚神社にお詣りさせられたりしたのは、今となってはなんだかお伽話を実体験したような、妙な懐かしさである。それにしても、わたしの親は、ゼーゼー、コンコン状態の幼い病人をバスに乗せたり、歩かせたり、山登りさせたりして、なんとも思わなかったのだろうか。それよりも病魔退散への願いが熱すぎて、気にかける余裕などなかったか。
 また、わたし自身にしても、あの頃ゼーゼー、コンコンしながら家の中で臥せっているよりも、あのように外へ出て体を動かしたのは自分を鍛えることができたというか、むしろ健康には幸いしたのかも知れないなあ――懐かしさのせいか知れないが、そのように思えるようにもなってきている。
 ちなみに、高塚神社という小祠は、大人になってものの本などで調べてみたら、「詣れば頭が良くなる」とのことで参拝者が多いのだそうだ。父は、どういうことで百日咳と高塚神社とを結びつけたのであったろうか。
 無論、わたしは頭の中身なんかはちっとも良くならなかった。ボーッとした頭がスッキリとせぬまま馬齢を重ねて、現在、74歳である。 
 
 

▲ 写真 色づいた稲田 ついこないだ稲穂が出てきた気がしていたのだが、最近ではもうずいぶんと色づいて来ている。取り入れも近いのかも知れない。