第394回 球磨川最上流部は、今…… 

前山光則

 10月22日(金曜)、気の置けない友人K氏につきあってもらい、球磨川の最上流部へ出かけた。
 球磨川は球磨郡水上村北東部の一番奥まった山中から発して谷を下り、人吉盆地を抜けて球磨村・八代市坂本町では再び渓谷を縫った後、不知火海へと流れ込む。この球磨川の水源地へは、今まで20回以上は行ったであろう。ひと頃は、毎年春と秋にみんなでワイワイ賑やかに登っていたものであった。球磨川大好きな人間たちにとって、水源地は「聖地」だ。標高1000メートルの沢からドドドッと噴出する清冽な水を目にする度に感動し、敬虔な気持ちに浸っていたのであった。
 このところ、数年、御無沙汰が続いていた。
 しかも、御無沙汰している間に、どうも、球磨川最上流部は山道があちこち崩れて、水源地までたどり着けない状態に陥ってしまっている、という情報が漏れ伝わるようになっていた。では、具体的にどのような状態であるのか。けれども、人から聞いた話だけではどうも要領を得ない。これは自分で辿れるところまで辿ってみたい、村の人たちにも話を聞きたい、と、そのような気持ちであった。
 午前9時過ぎには水上村に入った。まず役場へ立ち寄って、職員さんたちから水源地方面の道路状況について話を聞かせてもらった。そしたら、やはり道は荒れてしまっており、水の噴き出るところまで登るなどとは到底無理とのことだ。
「せめて水源地への登り口まで、ダメですか」「行かれんですねえ」
「登り口へ入るための道が、白蔵(しらぞう)林道から右へと分かれておるでしょう」
「ああ、あの林道も、途中が崩れてますし」
「エッ、白蔵林道が通行不可能となっとるですか。しかし、人家が何軒か山中にあるでしょうもん」
「はい、それは、回り道して行けるようにはなっとりますが」
「それなら、迂回路を通って、分かれ道あたりまでは大丈夫でしょうたい」
「いやあ、一般車は、どうだろうか……」
「……」
 K氏と2人で色いろ訊ねてみたものの、楽観的な答えはちっとも聞くことができず、ガッカリであった。状況は明らかに良くない。でも、とにかく進めるところまでは車で進んでみよう、と思った。
 役場を出て、球磨川沿いの道路を走った。
 進んでみて程なく、「ダメになっとるですねえ」ということばが現実味を帯びてきた。市房ダムの右岸側をすり抜けて、球磨川本流沿いをクネクネと走る。やがてダム湖の水が切れて、本来の渓流となる。役場から10キロほどで古屋敷という集落だ。ここは川が右と左とに分かれるので、左側の本流の方を走る。古屋敷から5キロばかり進めば、かつて半仁田(はんにた)林業や古屋敷小学校柳原分校があったところへと出るが、途中で二カ所、道路が崩れていた。昨年7月の大豪雨の時にこうなったのだろうか。応急措置を施してあるので通行できたが、ハンドルを操作するわたしに向かって、K氏が、
「おお、今は、窓の下を見てはいかんよ。ああ、あ、あ、あ」
 などと悲鳴に似た声を上げるから、かえって目を向けてみたくなるではないか。一カ所目は見ずに通ったものの、二カ所目ではちょっとだけ下方に目をやった。そうしたら、何ということだ、道路はまったく崩れたままなのであった。崩れた上を、とりあえず金属製の板で覆ってあるだけ。板と板とのすき間から、川水の流れる様子が丸見えであった。奔流が岩と岩とを噛んで、躍っている。この応急措置、ちょっとでも板がズレたり外れたりしたら、車はアッという間に転落するはず。思わず、ゾーッと震えが走った。
 そして、柳原集落をすり抜けてものの5分も走ったであろうか、「法面(のりめん)崩壊のため通行禁止」「全面通行止め」との立看板が置かれ、道路が封鎖されている。道路の左から細道が山の斜面へ這い上がっており、これが役場の人の言う「どうにか回り道して行ける」道であり、伝って行けば山中の家まではたどり着けるのであろう。だが、車1台がやっと通れる細い道だ。しかも、傾斜がきつすぎて、わたしのポンコツ車ではちょっと無理であり、四輪駆動車でないと登れそうにないような気がした。K氏と顔を見合わせて、お互いしばらく黙り込み、考えてみたが、やはり無茶はせぬことにした。
 代わりに、車はひとまず立看板の前に停めた。そして、通行止めの柵を踏み越えて、球磨川沿いの道を歩いてみることにした。
 歩いてみて分かったのだが、通行止め状態はどうもかなり長く続けられているようである。用心して歩かないと、どうかすると足もとがツルツル滑る。日陰になりがちな箇所では苔が生えて、はびこり、たいへん歩きづらい状態になってしまっており、つまりは車が通らないからこういうことになるとしか考えられない。落ち葉も、たくさん散らばったり積もったりしている。
 歩きながら、時折り道の端っこに寄って、川を見下ろしてみる。すると、何ともよく澄んだ水が多量に流れていて、岩にぶつかって白い飛沫(しぶき)を上げる。淀みでは、青々と深い渕をなしており、いかにも山女魚たちが潜んでいそうなので、山壁を伝って下りて行きたくなってしまう。渓流釣りの好きな人たちは、たまには来るのかも知れない。
 山は、紅葉には早すぎた。真夏のように青々と茂っているわけではないものの、色づきようはまだまだである。ただ、K氏が、
「おや、通草(あけび)だ」
 大木の茂りの中に蔓が絡まり、通草が下がっているのを見つけた。表皮が割れて、おいしそうな中身が露出しているが、これが熟した通草の特徴だ。なんだかんだ言っても、やはり秋なのだなあ、と思う。
 通行止めの箇所からおおよそ2キロほどは辿ったであろうか。やがて、川の右岸に荒れた山肌が現れた。2人とも、思わず、
「お、お、お、お……」
 呻いてしまった。山肌が、かなりてっぺん近いあたりから崩れて、広い幅で地肌むき出しの状態だ。それは当然、谷底まで続いている。こうした状態は昨年7月の大豪雨の際に生じたのであったろうか。多分、そうだろう。だが、もしかしたらそれより以前に地震や大雨にやられてそうなっていたのかもしれない。しかも、復旧工事が進められているふうでもなく、手つかずのままの状態がずっとそのまま続いている、といった印象であった。
 こうした土砂崩れは、これから先に何カ所生じているものなのだろうか。昨年7月の大豪雨以後、球磨川の中流・下流ではちょっとの雨でもすぐに水が濁ってしまい、しかもなかなか濁りがとれない。これは、最上流部の各所でこんなふうに土砂崩れが生じたままになっているからなのであろう。山奥の実態というものは新聞やテレビでほとんど報道されないので、世間の人たちは知らないままである。情けないなあ、と思った。 
 こんなふうでは、水源地までの登山ができるようになるまであと何年かかるだろうか。しかも、役場の人たちの話では、水源地あたりの原生林内では鹿たちが増えて、下草や木々の皮を囓ったりがひどいそうだ。これは最近始まった現象ではなく、わたしたちもすでに10年ほど前から水源地で実際目にしてきた光景である。最上流部のあちこちで道が荒れて、通行不能、しかも原生林の中では鹿による食害……、溜息が出るばかりで、車の方へ戻る時の足取りは正直なところひどく重たかった。
 なんだか草臥れたなあ、という気持ちでハンドルを握り、帰途についた。
 帰りがけ、古屋敷小学校柳原分校跡あたりへさしかかった時、80歳台であろうと思われる品の良いお婆ちゃんが川原で洗い物をしているのが目に入った。いやあ、人が川で洗濯する姿なんて、久しく見なかった風景だ。球磨川の水がきれいだからこそ、そんなこともできるわけであり、見ていて嬉しくなった。分校跡のトイレを使わせてもらい、休憩していたら、そのお婆ちゃんが道路の方へ上がってきたので、ご挨拶した。お婆ちゃんは、笑顔で、
「どこから来なったな」
 それで、2人とも八代からドライブして来た、水源地への登り口まで行けないかと期待していたが、ダメだった、などと答えたら、
「道が、なあ、悪うなっとるもんで」
 気の毒そうにおっしゃる。
「せめて、梅の木鶴(うめのきづる)の集落跡までは行けたらなあ……」
 と呟いたら、お婆ちゃんは眼を輝かせて、
「おろ、良う知っとんなるなあ」
「はい、何度かあそこを歩いたことあるですよ。5軒か6軒、廃屋が残っておった」
「そうですたい」
「自家発電装置まであった」
「そうそう、この柳原あたりではそぎゃんとはなかったが、梅の木鶴の人たちゃ持っとんんなった」
 わたしは、実は昭和50年(1975)4月から4年間、多良木高校水上分校に勤務したので、柳原分校あたりへは良く家庭訪問や個人的に遊びに来たりしていた。水源地の手前の廃村・梅の木鶴へも何度も出かけたことがある。
 それで、懐かしさの余り、柳原あたりから分校へ来ていたかつての生徒たちの名をいくつか挙げてみたら、何ということ、婆ちゃんは全部知っていた。知っているどころか、教え子のS女の名を挙げたら、
「はいはい、あれは、わたしの娘ですばい」
 とのこと。
「いやあ、そうでしたか。生徒たちは山のことを何でも知っておったですね」
「そぎゃんでしょうな」
「センブリがどこどこに生えておるとか、マタタビを採る時期は夏休みの終わり頃でないといかん、とか」
「あはは、そぎゃんでしたか」
「詳しかったから、いつも生徒たちから山のことを教えてもらいよりました」
 会話を交わす内に懐かしさが胸に溢れて来て、感慨無量であった。
「このあたりの山々には、ポツンと一軒家が多いですよね」
「そぎゃんですたい。一軒家ばっかり」
 なんだか、婆ちゃんといつまでも喋っていたい気分であった。
 10月22日の水上村訪問は、球磨川水源地へちょっとも近づけなくてなんとも淋しい限りであったが、このお婆ちゃんとの出会いだけは心和む収穫であった。
 帰ってから数日後、K氏は自分の大型バイクに跨がって五木村の方から例の白蔵林道へ入ってみたそうだ。そして、撮って来た写真を見せてくれたが、崖崩れの風景ばかりだ。
「あちこちで崩れておるから、球磨川水源地までは到底行かれんばい」
 彼はため息吐いてそう呟いた。さらに、「あの日、水上村でつくった俳句だ」と、

 秋探し秘境の村に人の影

 俳句を見せてくれた。そう、この句の「人」は、あの日のお婆ちゃんのことだ。そう言えば、10月22日、球磨川最上流部では役場職員さんたち以外にはお婆ちゃんしか見かけなかったような気がする。
 
 

▲通行止めの箇所 ここから先は進めないのである。矢印(↓)があるが、迂回路への入り口が左の方にある、と指しているのである

 
 

▲道路から見た球磨川 道路のずっと下の方を流れている。水量は、水源地あたりとさほど変わらないと思う

 
 

▲崩落した山壁 これより下の方までずっと崩れているのだが、カメラには半分ほどしか入りきれない。崩落後、どうも手つかずのままではなかろうか