第396回 盆地育ちということ

前山光則

 ふと気づけば、もう年が押し迫っている。時間の経つのが早すぎるなあ、と痛感する。
 今年は、今までの自分をふり返るような機会が相次いだ。あるところから若い頃のことを書かないかと勧められたり、だいぶん以前に書いた本の改訂作業をしたり、である。色々とそういうことがあった中で一番大きな意義を持ったのは、2月26日から3月16日までJR八代駅前の喫茶店ミックさんが催してくださった「前山光則を読む」である。わたしとしては、否が応でも自分のこれまでやって来たことを順序立てて回顧せざるを得なくなった。それにしても、3週間近い長い会期、いったいどうなるものやらと心許なかったが、えらく沢山の方たちが来てくださり、恐縮したのであった。会期中にトークショーもあって、参加希望者が定員を超えてしまい、これはもう1回やり直すこととなった。
 それで、この催しで自分として意外だったのが、高校2年生の夏休み中に三上慶子著『月明学校』の舞台を訪れてみた経験。あのことは、この企画展をやってくれたミックの笠井夫妻によれば、「あれは、あなたの原点」なのだそうだ。これには不意打ちを食らった感じだった。自分としては、名著の舞台が遠いところにあるのなら諦める。しかし、人吉の町の南方に横たわる白髪岳を越えればその向こうに『月明学校』の舞台・八ヶ峰(はちがみね)分校があるというので、そんならばすぐ近くだ、行ってみたい、そう思い立って修学旅行の積立金を学校から返してもらい(つまり修学旅行には参加しなかった!)、リュックサックや登山靴やらを買い込んで、同級生3人と共に山登りしたのだった。3泊4日、道なき道をさ迷っての山中彷徨、よくぞ無事だったよなあ、と、今思うとため息が出てしまう。そんなふうな、本を読んで感動したら現地へ行ってみなくては気が済まんというふうに行動してしまう、それはあなたの「原点」だ、と指摘されたのであった。自分としては単なる若気の至り、無謀な行ないをやらかしたとしか思っていなかったので、こうした御指摘はとても意外なことであった。
 なんか、今まで自分のことをあまり深く考えてこなかったなあ、もっと自分自身のことをちゃんと考え直さなければいかんかなあ、と反省させられた。
 そして、この1年、幼少時の頃から今までのあれやこれやをふり返ったり、旧著の大幅改訂作業を続けたりしてきたのだが、不思議なもので少しは自覚するところも出てきたような気がする。
 元来、わたしは、川に馴染み、川に育ててもらったという意識がとても強かった。熊本日日新聞に書いたエッセイ「川に囲まれ、心安らぎ暮らす」(2020年8月24日掲載)の中でも、次のように述べたことがある。
  *              *
 なにしろ、川に馴染んで育った。わたしの生まれ育った家は小学五年生の夏まで人吉市紺屋町にあったが、家のすぐ裏を球磨川の支流の山田川が流れていた。川原でみんなと一緒に野球や鬼ごっこ等に興じたし、川に入ったら水泳や釣りや鉾とか手網を使った魚捕り遊びに時間を忘れた。紺屋町から二日町という町内に移った時には、川が近くになかったので悲しかった。とはいえ山田川まで歩いて十分、球磨川へは五分だったから、相変わらず川は遊び場でありつづけた。
 考えてみれば、今はそこからさらに球磨川を下り、出口付近で毎日を過ごしているわけだ。人吉と八代は球磨川で結ばれているので、流域全体が自分のふるさと、と見なして良いようなものではないか。
  *              *
 人吉の山田川や球磨川は、こういうふうに自分を育ててくれた「ワンダーランド」である。現在も、球磨川の本流と支流とに囲まれた三角洲の中に住んでいる。散歩する際に、どの方角に行っても堤防の向こうに川を眺め渡すことができる。川の傍で育った人間として、心安まる風景がいつもあるので落ち着く、といったような気持ちである。
 だが、こうしたことに加えて、この1年、また新たな感慨が加わってきた。自分は盆地の中に生まれ、山々に囲まれて育った。山々の存在もまた大きいのではなかろうか、との思いが膨らんできたのである。
 わたしのふるさと人吉は、盆地の町。それも、完結度の高い盆地である。町なかから周りを見わたせば、東の方には球磨川上流の先の方に市房山(いちふさやま)や江代山(えしろやま)が聳える。西の方は、球磨川が谷間へと吸い込まれて行っている。北側の方は、球磨川流域で最大の支流・川辺川(かわべがわ)の流れる山岳地帯であり、相良村・五木村・五家荘といった山村が存在する。そして、盆地の南側は熊本県・宮崎県・鹿児島県が隣接するところ、いわゆる三県境いの山々だ。さらに少し東寄りには、いつも山巓に雲の被ることが多い白髪岳(しらがだけ)が横たわる。白髪岳の向こう側の方も熊本県に属しており、かつて上村立小中学校八ヶ峰分校があった。
 このようにしてびっしりと山々に囲まれていれば、窮屈でしかたなかろう、と海辺や平野部にいる人たちは察してくれるであろうか。しかし、実際に盆地の中で生まれ育ったわたしに言わせてもらえば、実はちょっと違う。確かに山々は四方の視界を塞いでいる。だが、それはまたその山間部にはどんな人たちがいるのか、どんなふうな暮らしがあるのだろうか、と、興味津々にさせてくれる。そして、さらにまた山々を越えた先にはどんな町や村があるだろうか、と、そんな具合で、盆地を囲む山々は、あれやこれやと夢想を掻き立ててくれる刺激物であった。
 だから、小さい頃から山の方へ遊びに行くことを好んだのである。市房山へは10回以上登ったし、球磨川沿いに下って球磨村方面近くまで遊びに行ってみるのが面白くてしかたなかった。最も馴染んだのは、人吉市の北隣り山江村であろうか。父母のふるさとなので、お盆や正月や祭りの時など親戚の家に遊びに行った。盆地の南側の加久藤(かくとう)方面にも遠縁の農家があって、ここにはよく泊まらせてもらっていた。三県境いの近くに矢岳(やたけ)高原があるが、ここへも何度も出かけた。高原からは南方にえびの高原が眺められ、天気の良いときには遠く桜島の噴煙が見えたこともあった。人吉盆地の外側を眺めわたす時の気分は、実に格別のものがあった。
 川によって育てられただけではないのだなあ。盆地を取り巻く山々も、自分の成長には大きく影響を与えてくれたのだなあ、と、今、しみじみとそう思う。決してマイナスの要因などではなかった。こうしたことが、この1年でようやく自分の中ではっきりと自覚されてきたのであった。
 もう一つ、霧のこと。人吉盆地は、真ん中を球磨川という大きな川が流れ、周囲を山々に囲まれた環境であるために、実に霧の発生の多い土地である。朝、深い霧に覆われる時、盆地内は言うに言われぬ幻想的な世界と化す。霧は、昼前まで盆地を覆うことが多い。午後は決まって晴れ上がる。
 川で泳ぎ、魚捕りに興じ、周りを囲む山々には分け入って行き、深い霧が盆地に立ち籠めた時には幻想的な雰囲気に浸った、……自分はこうした自然環境の元で育ったのだな、と、今、しみじみ思う。
 これまで長いこと自分自身のことをぼんやりとしか考えていなくて、恥じ入るばかりだ。しかし、今年ばかりはなんだか急に自覚されてきた。歳をとるというのは、こういうことなのかも知れない。
 それにしても、女房が亡くなって3年、まだ寂しくてしかたがない。いつになったら、心穏やかに枯れてしまうことができるのか。あるいは、寂しがっているうちにボケ老人と化してしまうのか。なんだか、心細くなる。
 さて、来年はどんな1年になるだろうか。

▲今年も、もうじきクリスマス。くまモンも、この頃はサンタクロースに扮している。(八代市、日奈久温泉観光案内所・日奈久ゆめ倉庫前、12月19日撮影)