第436回 二度目の時には

前山光則 
 
 平成3年(1991)に経験した甲状腺癌は、前回話題にした通り手術を受け、三週間ほど入院して健康を回復することができた。ところが、次にまた災難がやってきた。
 それは、平成17年(2005)になってからのことだ。以前のように喉元に、しかしながらまた違ったチカチカした違和感を覚えるようになって、初めはちょうどその頃歯の治療に行っていたから歯科医院で診てもらった。そうしたら、歯にはまったく関係ないとのことであったので、八代総合病院(現在の熊本総合病院)に行ってみた。細胞を摘出しての検査が行われたが、結果、7月19日、癌ができていると告げられたのだった。これにはガックリうな垂れるしかなかった。
 もっとはっきりさせるためには熊本大学付属病院に行け、と言われて、出かけて、みっちりと精密な検査をしてもらった。
 検査結果が出る前に、友人2名と共に沖縄の八重山(やえやま)諸島へ旅行した。これは、以前から計画していたことであった。その当時、沖縄県石垣島(いしがきじま)に友人のSさんが居り、森林管理署の職員として仕事をしていたので、彼を頼っての旅だった。 7月25日に出発し、博多空港から石垣島へ飛んだ。そして、石垣島だけでなく同じ八重山諸島の竹富島(たけとみじま)、波照間島(はてるまじま)、西表島(いりおもてじま)、最後は沖縄本島の方へ渡って、28日の夕方、博多空港へと戻ってくるという、三泊四日の旅であった。その間、自分の体のことについては友人たちには一切言わなかった。というか、何より自分自身が癌のことなど忘れておこう、一つ一つの景色やできごとをしっかり愉しもう、味わおう、と心に決めて旅をした。
 沖縄は空気が清々しかった。毎日暑いものの、ムシムシせず、サラリとした空気が気持ちよかった。泡盛がまた風格のある飲み物で、飲んでいて満足であった。マンゴーもパイナップルもおいしかった。海は、言うまでもなくきれいで、泳いでいて実に愉しいし、時間を忘れてしまうほどに充実した、悔いの残らぬ三泊四日であった。無論、時折り癌のことが頭を過(よぎ)り、一瞬落ち込むのだが、エエイッ! と無理やり押さえ込んで忘れてしまうことにした。忘れてしまえるだけの沖縄ならではの色いろな南国的風物があり、おもしろい人たちが居て、満喫することができたのである。
 最終日の7月28日がまた、たいへん愉快であった。 
 朝の6時半に起きて、すぐに港近くの浜へ海水浴に行った。潮の干ききった磯には、浅瀬に小魚がウヨウヨいた。色んな種類がいるのだが、みんな色鮮やかで、熱帯魚という感じだ。沖へ出て爽やかな気分で泳いだ後、磯の方に戻ってひと休みしていたら、珊瑚礁の潮溜まりの中にとても大きなガザミ蟹が蠢(うごめ)いているではないか。これには胸が躍った! 咄嗟に思いついたのが、ちょうどそのとき右手に持っていたタオルであった。これを広げて、ガザミの上へフワリと落としてやったところ、敵は慌てた。手足をバタつかせたが、みるみるうちにタオルが絡まってしまい、たちまちガザミは身動きできなくなった。後は易々とタオルごと持ち上げれば良いのであった。
 これをSさんの部屋に持って帰り、大鍋に入れて茹で上げて、沖縄特産のオリオンビールを飲みながらみんなで食べた。4人でガザミを毟ったのであったが、食い足りぬという感じがなかった。ガザミはそれほどに大きく太っており、たいへんおいしかった。
 その日は、そのようにして朝からほろ酔い気味となった。豊年祭や泡盛の醸造元を見学したりして、午後3時5分出発の那覇空港行きの便に乗りこんだ。そして自分たちの席に行ってみたら、なんと、真後ろの席に垢抜けしたチャーミングな美人が座っているではないか。俳人の黛(まゆずみ)まどかさんであった。赤ら顔のわたしが挨拶したら、ニコッと笑みを浮かべて、
「あら、前山さん、まあまあ、お顔が良い色ですこと」 
 冷やかされてしまった。いやはや、頭搔いて照れるしかなかった。黛さんは、ファンの人たちと一緒に沖縄を旅してまわるという吟行の旅の途中であったのだそうだ。
 那覇から福岡の板付空港へ飛んで、福岡からは鉄道を利用して帰った。自宅に着いたのは午後11時過ぎであった。
 そして、8月3日、はっきりした検査結果を知らされた。今度のは「下咽頭癌」であった。しかも、最初に下咽頭に癌が発生し、それが大きくなり、リンパ腺に転移して新たに二つ腫瘍ができてしまっている、つまり最初の分と合わせて三つの癌が確認できる、とのことであった。
 医師は至って冷静な顔つきで、
「治してあげるから」
 と言ってくれた。この一言は、実に胸に染み入った。でも、なにしろ14年前の甲状腺癌と違って、今度のは三つもの癌が喉元にできてしまっている。しかも、リンパ腺にも転移しており、これはもう、てっきりダメだ。「治してあげる」といってくれるのは、励ましているだけであって、たぶん完治する見込みはないのだろう、と観念した。
 そのような境地であったが、ただ、ガックリきたものの、不思議と怖くはなかったのである。ハッキリした検査結果を聞かされて、しばらくしてから自分のそのような気持ちに気づいた時、なんだか我ながらとても不思議であった。初めて癌を病んだ時は、ひどく怯えて、身も世もない不安な日々を過ごしたのであった。それが、今回は、検査結果が出るまで正直なところ怯えていたが、癌の正体が明らかになった今はどうだろう。もはやビクビクしてはいないのであった。無意識のところは、わたしは、どうも、もう諦めていたのかも知れなかった。むしろ、最悪の場合を考えて、慌てぬよう努めなくてはならぬなあ、と、自らに言い聞かせていたようにも思う。
 それで、熊本大学附属病院に入院したのが8月18日であった。無論、勤めの方は長期の休みをとらせてもらった。
 主な治療は、まず抗癌剤点滴。全身を抗癌剤で洗う必要があるのだそうであった。なにしろリンパ腺への転移があるのだから、これは避けられないことだった。これが、まん中に休憩期間を置いたかたちで都合三週間行われた。それと、点滴開始よりも2日ほど遅れて放射線治療が始まり、35回続いた。最初は何ということもなかったが、10回目を超える頃から喉を中心に痛みが生じてきた。痛みは回を重ねるごとに徐々に増してきて、苦しんだ。最終回は10月19日であったが、「放射線三十五回目。これをもって終了。スタッフの人たちにお礼いう時、涙がこぼれそうに、ウルウルとなってしまった」と日記に書いている。とにかく照射された部分が大火傷状態と化しており、ヒリヒリした痛みが日ごとにひどくなっていたのである。この火傷状態は今も完全にはなくなっていない。
 10月28日、いったん退院をさせられた。自宅でしばらくの間体力を回復してから、手術を受けるための再入院をせよ、とのことであったのだ。だから、自宅で約一ヶ月近く休養をとって、その後、11月25日に再入院をしている。再入院の直前に女房の叔母、そしてわたしの父というふうに相次いで身近な人間が世を去った。この時期、わたしよりも女房の方が対応に追われて大変で、気苦労が多かったろうと思う。
 そして、11月29日が手術であった。朝8時に手術室へ入れられ、全身麻酔で眠らされ、午後3時半ごろ目覚めた。「原発(最初に癌ができた)の部分の癌はちゃんと消えていた由」と日記に記しており、つまり下咽頭にできていた癌は手術前の抗癌剤点滴や放射線治療によって叩かれ、消滅していたことになる。リンパ腺に転移した分もずいぶんと小さくなっていたそうで、手術によって取り除かれたのだそうであった。
 退院したのは、12月9日であった。医師が「治してあげるから」と言ったのは、どうも本当であった。抗癌剤点滴や放射線治療、最後には手術を受けて、心身共にヨレヨレ状態になってしまっていたものの、どうやら命は助かったのだった。なんだか、この世に無事生還できた、という気分であった。
 これが、わたしの二度目の癌体験である。最初の時よりもずっと病気に対して慣れができて、少なくともビビるというか、怖れおののくことにはならなかった。いや、実のところは心の奥の方でビビっていたのだが、それを無理やり抑えつけて日々を過ごすことはできた。やはり、経験を重ねると、それだけの心構えはできていくものなのだろうな、と思う。以後も、できたばかりの癌を摘出してもらう手術を4回経験したが、その都度もう慌てたりはしなかった。
 しかし、である。やはりあの淵上毛錢の辞世「貸し借りの片道さへも十万億土」、この境地に自分は達して得ていただろうか――やっぱりそのようなことを思ってしまう。今となっては、自分は医師の「治してあげるから」の一言に助けられてきただけだったのではないだろうか。あの一言がなかったら、その都度、悲観し、あがき、みっともなく怯えていたのではなかったろうか。
 ――そのような思いが今も消えない。
 
 
  
 

道ばたの枇杷の木 八代市の郊外、道ばたで見かけた枇杷の木。栽培種でなく、自生しているのである。枝もたわわに実がついている。捥いで食べてみれば、きっとうまいはず。