第438回 トットちゃんたちのはやし歌 

前山光則 
 
 学生時代のことを思い出したついでに、黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』『続 窓ぎわのトットちゃん』を読んでみた。いや、大変おもしろかった。この人の精神的豊かさというか、自由さというか、伸び伸びと伝わってくる本である。
 たいへん個性的で、落ち着きのない女の子「トットちゃん」、つまり少女の頃の黒柳徹子さんは、あんまり風変わりな娘だったために小学校で他のみんなと一緒に過ごすことがなかなかできない。というか、みんなと仲が悪くなかったわけではないのだが、先生たちの方でトットちゃんを扱いこなせなかったようである。だから、可哀相なことに小学校を一年生で「退学」させられたのだった。ご両親は困ってしまうが、幸い受け入れてくれる学校があった。トットちゃんは、ママに連れられて「トモエがくえん」という校名のその新しい小学校に行き、校長先生に会う。そして、無事に編入学を認めてもらうのである。
 さて、この「トモエがくえん」というのは東京都目黒区の自由が丘にあったのだそうだが、どうも普通の学校とだいぶん違っていたようだ。払い下げになった電車が何台も校内に置かれ、それが教室として使われていたというから、これはまたなんともステキな小学校ではないか。そして、校長は小林宗作という人で、実にユニーク、独特の開明的な考えを持っている人物だった。

  校長先生は、トモエの生徒の父兄に、
 「一番わるい洋服を着せて、学校に寄こしてください」
 と、いつもいっていた。というのは、〃汚したら、お母さんに叱られる〟とか〝破けるから、みんなと遊ばない〟ということは、子供にとって、とてもつまらないことだから、どんなに泥んこになっても、破けても、かまわない、一番わるい洋服を着せてください、というお願いだった。トモエの近くの小学校には、制服を着てる子もいたし、セーラー服とか、学生服に半ズボン、という服装もあった。だけど、トモエの子は、本当に普段着で学校に来た。

 保護者に「一番わるい洋服を着せて、学校に寄こしてください」と申し渡すのだから、明らかにこの校長は普通の教育者とは違う。常識的には、やはり、「わるくない洋服」というものを重んじるであろう。派手なのは奨めないとしても、みっともなくない身なり、つまり「わるい洋服」でなく、見栄えの悪くない服装をしてくるように指導するに決まっている。だが、この小林宗作という人は、「どんなに泥んこになっても、破けても、かまわない」ものを子どもに着せてほしい、と保護者に申し渡すのである。だから、学校に行く際に最も必要なのは「一番わるい洋服」ということになる。つまり、この本は、というか、小林宗作先生は、冒頭から世間的な常識を見事に取っ払ってしまっている。
 でも、確かに子どもは元気よく過ごすのが一番のことなのである。活発に遊んで、学んで、成長を遂げていく。きれいな服を着ていたら、学校で思うように体を動かすことはできないので、「一番わるい洋服」が最もふさわしいわけである。こうした開かれた発想を持つ校長がいるトモエ学園に転校できたのだから、トットちゃんはたいへん幸せであった。それも、民主主義教育へと転換した戦後社会であればともかく、これは昭和10年代半ば、日本が第二次世界大戦へと突入する頃の話なのであるから、まるで奇蹟みたいな話ではないだろうか。
 以後、彼女はトモエ学園で伸び伸びとした学校生活を送るのである。
 なにしろ、『窓ぎわのトットちゃん』も『続 窓ぎわのトットちゃん』も、読み出したら止められなくなった。アッという間に、たった1日で2冊とも読み通してしまった。
 こうした環境の中で成長を遂げたトットちゃんは、やがてその才能が周囲に見出されて、テレビや映画の世界へと進出していった。黒柳徹子さんは、最初から伸びのびと仕事したのではないだろうか。トモエ学園で受けた教育は、それほどにこの人に力を与えてくれたような気がする。銀之塔でこの人を客として迎えていた頃、えらくお喋りしながらシチューとグラタンを召し上がるから呆れてしまっていたものであったが、あれは実に自分のあさはかさ。人気女優の蓄えていた特質をちっとも見抜けていなかったのだなあ、と、つくづく思う。
 ところで、『窓ぎわのトットちゃん』の中には、アッ、これは自分たちにも覚えがあるゾ、と叫びたくなる場面がある。

  トットちゃんの前の学校のときも、そうだったけど、小学生が、「はやし歌」を、声を揃えて歌うのが、はやっていた。例えば、トットちゃんが、退学になった、その前の学校では、放課後、学校の門を出てから、自分たちの学校を振り返りながら、生徒たちは、こう歌った。
 「赤松学校、ボロ学校! 入ってみたら、いい学校!」
 そして、このとき、たまたま、よその学校の子が通りかかったりすると、その、よその子は、赤松小学校のほうを指さしながら、こう大声で、けなした。
 「赤松学校、いい学校! 入ってみたら、ボロ学校、わーい!」
 どうやら、建物が、新しいとか、古いとかいう、見たところで、「ボロ」か、どうか決めるんだけど、やはり大切なのは、「入ってみたら……」のところで、子供とはいっても、学校は、建物より、内容で、「入ってみたら、いい学校!」のほうが、「いい」という真実をついているところも、この歌には、あった。 

 なんだなんだ、都会でも田舎でも子どもたちは似たようなことをして日々を過ごすものなんだなあ、と嬉しくなってしまう。「赤松学校、ボロ学校! 入ってみたら、いい学校!」「赤松学校、いい学校! 入ってみたら、ボロ学校、わーい!」、子どもたちの愛校心というものは、まことに他愛もない歌となって、しかしながら活き活きと発揮されるのである。しかも、この「はやし歌」は、「一人のときは、歌わなくて、五人とか六人とか、人数の多いときに、やるのだった」とある。そう、わが校を褒めあげてよその学校を腐(くさ)すのは、自分一人では心細い。やっぱり、仲間が居てくれる時にこそ気が大きくなり、元気良い声も出るのである。
 わたしなども、子ども時代、似たような「はやし歌」をしょっちゅう口にしていた。わたしが育った町内は人吉市紺屋町だったが、家の裏を球磨川の支流・山田川が流れ、この川を境にしてわたしたちの町内までが人吉東小学校区であった。川の向こう岸は、人吉西小学校区。いわば、「敵」であったから、川を挟んで対岸へいつも声を挙げていた。
 
 西小は 金学校
 行ってみたら 糞(ベー)学校

 東小は 糞(ベー)学校 
 行ってみたら 金学校

 こんなことを叫ぶのだから、トットちゃんたちに比べてわたしたちはえらく下品であった。しかも、これは簡単な方の歌詞。相手を貶す際に、もう一つのパターンがあった。

 西小の 先生は 
 一足す一も知らないで
 黒板叩いて 泣いている

 ごていねいに相手校の先生のことを腐(くさ)すのだから、手が込んでいるし、明らかに敵愾心(てきがいしん)まる出しである。無論、相手側だって負けておらぬので、「東小は 金学校 行ってみたら 糞(べー)学校」「東小の 先生は 一足す一も知らないで黒板叩いて 泣いている」とやり返す。それをくり返す内に互いにファイトまる出しになってきて、あげくには山田川を挟んで石を投げ合っていた。かつて、自分自身の作品集『この指に止まれ』等でこうした幼少年時については触れたことがある。
 そして、類似の歌は島尾伸三著『月の家族』にも登場する。つまり、南国・鹿児島県は奄美大島、昭和二十年代後半の子たちが、

 ナゼコー(名瀬校)の先生はー♪
 一たすう一を知らないでー♪
 黒板叩いて泣いていたー♪

 などと歌うのである。トットちゃんたちがこの「黒板叩いて」の類(たぐ)いまで歌っていたかどうか分からない。もしかして、都会の子に比べて、わたしたち田舎の子たちの方が相手校を腐すのに具体的というか、念入りだったのであろうか。
 だが、それにしても、程度の問題はさておいて、子どもたちが互いに自校を誇り、他校をこき下ろす習性は、育った時代や地域を問わず必ずあるものなのだな、と思う他ない。都会の子も、田舎の子も、同じように元気であり、大変やんちゃだったわけである。
 『窓ぎわのトットちゃん』『続 窓ぎわのトットちゃん』は、そのようなわたしたち自身の幼少年期をも生まなましく思い出させてくれた。
 

田植えが終わっている いま、八代平野では、少しずつ田植えが行われている、もう植え終わった田が目の前にあり、毎日少しずつ苗が育っていっている。