第44回 「縁故節」と出会う

前山 光則

 こないだ上京した時には山梨県まで足を伸ばし、大月市で禅寺の住職をしている五歳年上の従兄にも久しぶりに会った。昼間は甲府盆地内の寺や美術館等を巡り、夜は従兄の寺で酒を酌み交わし、愉しく過ごしたのである。
 車であちこち巡るとき、従兄が、自分は同好の人たちと一緒にコーラスをしていてその声をCDに収めている、聴いてみるか、と言う。早速カーステレオで音を出してもらったのだが、「おどみゃ島原の/おどみゃ島原の…」の節回しである。ほう、山梨の人たちが九州の方の子守唄を合唱するのか。

「縁で添うとも/縁で添うとも/柳沢いやだョ/(アリャセー/コリャセー)/女が木をきる/女が木をきる/茅を刈る/ションガイナー/(アリャセー/コリャセー)」

 ン、しかし歌詞が違うゾ、と首をかしげていたら、従兄が「どこかの唄とそっくりだろ?」と言う。確かに節回しが「島原の子守唄」と同じだ。だが従兄によれば「これは『縁故節』といって山梨県の代表的民謡だ」、そして「島原の子守唄」はこれに追随しているだけなのだそうだ。実に興味深い話であった。
 甲府市の山梨県立文学館の売店に手塚洋一著『山梨の民謡』(山梨ふるさと文庫)が売ってあったので開いてみると、従兄の説くとおりである。縁故節は峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」が元歌だそうで、これが大正末期に韮崎の有志により編曲が施された。編曲の際に陽旋律から陰旋律に変化したためか、「エグエグ節」が作業唄だったのに対して「縁故節」は盆踊り唄として親しまれ、昭和初年から10年代にはラジオの電波に乗って全国にも広く知られたのだという。
 この「縁故節」の地元の人たちと「島原の子守唄」の作者との間で、どちらが本家であるか論争が行われたことがあるそうだ。「島原の子守唄」は宮崎康平の作詞・作曲ということで流通している。名著『幻の邪馬台国』で知られる人だ。宮崎康平自身はこの子守唄を戦時中に作ったと言っていた由である。それを昭和32年に森繁久弥が舞台劇「風雪三十年」でうたい、翌年、島倉千代子の声でレコード化されてヒットした…となれば、「縁故節」の方が明らかに早く成立していることになる。勝敗ははっきりしていたわけだ。山梨県の唄が流れ流れて九州でもうたわれ、それを宮崎康平も聴きなじんでいたのだったろうか。それで「縁故節」の節回しをもとにし、詞だけ独自のものをつけて「島原の子守唄」が誕生したことになるか?
 「島原の子守唄」も本家「縁故節」に見習った民謡として存在意義は充分にある。ただ、だからこそ歌詞はともかくとして少なくとも節回しについては宮崎康平の「著作物」とは言えぬ。民謡はひろく民衆によってうたわれ、誰もが所有するし、だけど誰も専有・独占しない性質のものだからな、と思ったのだった。

▲清光寺。北杜市で従兄が静かな案内してくれた長陽山清光寺。曹洞宗の古刹(こさつ)である

▲清光寺境内の芥川龍之介句碑。寺の境内に、芥川龍之介の句碑を発見!刻んである句は「藤の花軒端の苔の老いにけり」