前山 光則
今回は、福岡県立図書館で閲覧した「九州文学」戦中から敗戦直後にかけてのバックナンバーについて、少し感想を述べてみる。
この雑誌の昭和19年8月号の編集後記で、原田種夫は「不敵にもわがサイパンに来寇した醜夷は鋼鉄と爆弾をもつて迫つてゐる。それらの中に身をさらし醜夷撃攘に悪戦苦闘をつづくる皇軍将兵に応へる道は、兵器である、食糧増産である、銃後鉄石の団結と撃敵精神の昂揚である」等と銃後の心構えを呼びかけている。当時の出版物は必ず軍の検閲を受けねばならなかったので、それを意識しての論調であったかも知れないが、そうだとしても悲壮なまでの愛国調は印象的だ。
この後、「九州文学」は20年5月号で中断し、敗戦後の21年1月に再刊される。その号の編集後記は劉寒吉である。「ながい間文学を掩つてゐた暴虐の雲がはらはれて明るく青い空があらはれた。自由。なんといふ美しくなつかしい言葉であらうか」云々と、それまで彼らがいかに圧倒的重圧の下にあったかが記され、しかし現在は自由がみなぎっている、困難な雑誌経営もわれわれの情熱で支えてみせる、と意欲充分である。原田の愛国論調、劉の自由讃歌、2人はまったく正反対のことを言っている。だが、それぞれの発言に戦時中の、そして敗戦直後の空気というものが正直に反映されているのは明らかだ。
熊本県の水俣で病床に臥していた淵上毛錢は、昭和17年8月号発表の方言詩「百姓もまた」の中で「世界地図ば見ろ/赤ふにぬつてある/こまか/ながいところば/日本は強い/日本は強かぞ/絶対に」と詠うから、少なくとも反戦・厭戦の人ではなかった。ただ十八年十二月号発表の「きんぴら牛蒡の歌」も十九年八月号「焼茄子讃歌」も、共に身近な食膳に上るおかずを題材に、その味のよさが実に淡々と叙されている。毛錢にとって戦争はやや遠いところにあったようだ。
しかし、19年1月号の詩「包夷抄」はちょっと違う。日本に特有の風呂敷の便利さや風雅を讃えた長い詩である。「きんぴら牛蒡の歌」「焼茄子讃歌」と同じ飄々とした調子で展開するが、最終連で「いでや心して/時到らばや/ゆめ/違(たが)ひなく/確(しっか)と醜の夷の奴(やっこ)をば/引つつつみてなん/高高と/あなうれしとも/うれし」、この風呂敷でにっくき敵(の首)を包んで高々と掲げるならば、ああ嬉しいぞ、嬉しいぞ、と結んでいる。この最終部分は、それまでささやかな生活感を呟いていた者がふいに凱歌をあげるようなもので、詩全体を眺めると唐突な感が否めない。否めないものの、毛錢のような病床詩人のもとにも戦時の空気が押し寄せていた、ということなのであろう。
それにしても、あの時代ならではの独特の空気に圧倒されてしまう。閲覧後、図書館から出て仰いだ空はのどかでしかたなかった。